六条
判官 為義
は、三井寺を経て東国へ落ちようとしたが、重病にかかって動けなくなったので、息子たちとも別れて比叡山に登り、ついに出家してしまう。父を追うて山に登った六人の息子たちは、為義の変わり果てた姿を見て驚き嘆くが、為朝は、
「すぐ東国へ下向され、三浦・畠山を始め東国の武士を集め、足柄
・箱根をふさいで鎌倉に都を立て、関東八ヵ国の源氏を召し寄せ、入道殿を法親王
と仰ぎ、為朝が御後見すれば、昔の平
将門 が平親王
と号して、関東に都を立てたときの勢いに、どうして引けを取ることがあろうか。ただ迷うjことなく関東へお下りなされよ」 と進言するのであったが、為義は、 「出家の老人に、そんな果報があろうとも思われぬ。若いお前たちは、それぞれ自由に振る舞うがよい。自分は義朝を頼りに自首しようと思う」
と答えたので、為朝は顔色を変えて口もきかなかった。こうして為義は、涙にくれながら子供たちとも別れてしまった。 一方、平馬助
忠正 は伊勢
国 へ落ちていたが、少納言入道の流した、謀反人の死罪はみな許して流罪にする、よいう噂を信じて出家し、甥の清盛を頼って自首した。 ところが清盛は、自分が伯父を斬らなければ、義朝に父の為義を斬らせることは出来まいと思ったので、ついに伯父の忠正を申し受けて斬ってしまった。 |