はたして義朝に対して、
「為義がお前のところにいるというが、頸を刎
ねて参れ」 との命令が下った。義朝は、今度の軍功にかえてもと、父の命乞いをするが許されず、思いあぐんで、つい腹心
の家来鎌田 政清
に、その処置を任せてしまう。 鎌田は、東山の庵室で余生を送られるようにとだまして、真夜中に為義を車に乗せて出るが、途中、車から輿
に乗り換えるところで、だまし討ちしようとする。為義は驚いて、 「さては義朝に出し抜かれたか。仏が衆生
を念じ給うように、衆生は仏を念ずることなく、父母が子を思うように、子は父母を思うものではないと、仏がお説きになっているとおりだ」 と、涙にむせび泣くが、為義も清和天皇の子孫、六孫王
の末、鎮守府 将軍頼義
の孫、征夷 将軍義家の子息、昨日までは上皇方の大将軍である。気をとりなおして、
「早々、斬れ」 と西に向かって念仏を唱え、ついに、源氏相伝の家来の手にかかって斬られてしまった。 首実験が終わると、為義の首は義朝に賜ったので、死骸とともに煙にして手厚く葬ったが、父を殺した義朝の供養である。為義の魂も、どうしてこれを心よく受けることができよう。 為義の五人の子供たちも、鞍馬
をはじめ、あちらこちらに隠れ伏していたが、義朝の討手
がみな搦 め捕
って斬り捨ててしまった。ただ為朝だけは、太刀を打ち振って逃げ去り、どこへ隠れたのか行方も知れなかった。 |