さて、左大臣の頸の骨に突き立った白羽
の矢を、お供の少納言成澄
が引き抜くと、竹の筒から水を流すように血が吹き出して、左大臣はもう目を動かすばかりで、ものも言えなくなってしまった。同じく十二日、せめて父の富家
殿 のお目にかけようと、車に乗せてお連れしたが、富家殿も世を憚
ってお会いにならない。止むを得ず奈良の方へお供をしたが、いよいよ弱りはてて、七月十四日には、ついにはかなくなられた。 翌十五日になると、謀反人たちはつぎつぎと捕らえられ、なかでも式部
大夫 盛憲
や蔵人 大夫
経憲 などは、あの応天門
の放火事件で嫌疑のあった、大納言伴
善雄 が拷問
を受けた前例ならって、七十五度の鞭打ちにあい、とうとう悶絶してしまう始末であった。 重仁親王は仁和寺へ入って出家され、新院も御嘆きのあまり、 |