為朝の面魂
は、まことにいかめしく、背丈
は七尺にあまって並の人より二、三尺も高く、生まれついた弓の上手で、左手の腕が右手より四寸も長かったので、八尺五寸の大弓を引くのであった。二十四本差した箙
の上に、大きな鏑矢
を四本差し添えたのは、まるで森の中に高い梢から飛び出しているかのようである。その大弓を脇挟
み、揺るぎ出てくる勢いは、かの刀八
毘沙門天 が悪魔退治に忿怒
する姿を現したようで、いかなる悪鬼であろうともとうていかなうまいと見えた。将門
・純友 も、また貞任
・宗任 も、昔から今にいたるまでだれであろうと、これに敵する英雄はとyていあり得ないと見える為朝の雄姿であった。 新院は御簾
の間からこの姿を御覧になり、 「まことに一騎当千の兵
とは為朝のことだ」 と、とりわけお喜びになったおもむきである。 さて、 「合戦の次第を申せ」 との仰せに、為朝はかしこまって、 「合戦には夜討ちにまさる計略はございません。夜明け前に内裏高松殿に押し寄せ、三方から火をかけて攻め込めば、敵は一人も逃げられぬはず、兄の義朝だけが手ごわく防ぎましょうが、私が真ん中を狙って射通してしまいましょう。清盛などのへろへろ
矢は、ものの数でもございません。天皇の行幸が始まれば、御輿
に矢を射つけましょう。輿から恐れて逃げるとき、行幸をこの御所へ導き奉れば、たちまちのうちに勝敗を決めることができましょう」 と、むぞうさに言い放ったので、左大臣は、
「それは粗暴なことだ。夜討ちなどとは、お前らの私戦
でのこと、主上の御国争
いの合戦として、あるべきことではない。奈良の僧兵ら、また吉野
・十津 河
の差 し矢三町、遠
矢八町といった射手 たちも、明日は御所に参るはず、彼らを引き連れて合戦すべきであえる。夜の間、よくよく御所を警固して、奈良の兵を待つがよい」
と仰せられたので、為朝は、 「義朝は心得のある武士だ。人に先手を取られるはずがない。合戦のはかりごとは、この為朝に委せられるがよい。口惜しいことだ。今にも敵におそわれて、御方
の兵らがあわてふためくことだろうよ」 と、高らに罵って退出してしまった。 為朝は幼いころからの荒くれ者で、父為義も扱いかねて九州へ追い下していた。十三の年から豊後国
(大分県) に住み、阿蘇
忠景 の婿
となり、菊池・原田などの豪族を従え、三年の間に九州一円を征服してしまったので、父の為義は官を解かれてしまう。これを聞いた為朝は、父の無罪を陳情ために上洛したが、為朝を慕い寄る兵らはすべて押しとどめ、矢前払
いの首藤 九郎・あき間
数 えの悪七別当
・手取りの与次 ・与二
三郎・三丁 礫
の紀 平二
・大矢の新三郎・金拳
の八平二など、一騎当千の兵
十七騎をはじめ五十騎だけを引き連れて、都へ上って来たのである。 |