一方、左大臣は宇治にいたが、新院の白河殿御幸を知って急ぎ参殿した。わが身は粗末な張輿
にかくれて乗って遠廻りし、自分の牛車には菅
登宣
・山城前司重綱
の二人を乗せ、左大臣殿の参殿といつわって六波羅の前を通らせた。兵たちは、はたして左大臣殿のお通りだと思い、この牛車を押えたが、信西ははやくもこれを覚って、
「左大臣ではない、そのまま通せ」 といって通してしまう。牛車の二人は白河殿に着くなり、「おそろしや、おそろしや。すんでのことに鬼の餌食
になるところだった」
と、ふるえあがった。 同じく七月十日、新院は白河殿から、さらに北殿
へお移りになる。北殿の南にある大炊
御門
には、東西二つの門があったが、東の門を平
忠正
と多田
頼兼
が警固し、西の門は八郎為朝一人で守護することになった。また西
河原
面
の門は子供たちを引き連れて為義が固め、北面
は平
家弘
が承った。 さて、新院は為義を召されて合戦の手だてをお尋ねになったが、為義は辞退して為朝を推挙したので、いよいよ為朝が召し出される事になった。
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