七月九日の夜、新院は鳥羽の田中
殿 から京の白河殿
へ御行 、その夜ただちに六条判官
為義 をお召しになったが、為義は辞退したので左京大夫
教長 を宿所に遣わして説得されると、
「わたくしは、実戦の経験にも乏しく適任とは思えません。長男の義朝は武勇の兵
でございますが、内裏の御方へ参ってしまいました。残る子らの中では、末子の為朝
だけが頼りになりましょう。あいつを参上いたさせましょうか」 と、しぶしぶ申し上げる。これを聞いた教長は、 「家に居ながらの御返事は無礼であろう」
というので、為義は、 「私の気が進みませんのは、年ごろ鎮守府将軍を望んでおりましたのに御許しがなく、祖父頼義
の例にならって、伊与
国 (愛媛県)
を所望しましたところ、これも許されません、また父義家
の任国陸奥守 を願いましたところ、陸奥国主は源氏の家に不吉であると、これも御許しがなく、今にいたるまで望みをかなえることができません。そのうえ先日、不思議な夢を見ました。代々の源氏に相伝の薄金
・膝丸 ・月数
・日数 以下の鎧
が、風に吹かれて四方へ散ると見ましたので、心もとなくて何処へもさし出る気がいたしません」 と申し上げたところ、再び教長に、 「今度の忠勤によってこそ年ごろの望みは達せられようものぞ。そなたほどの武者が夢物語などとは、おじけのついた話ではないか。とにかく参上して、上皇様への御返事あるべきである」 と、説得されて、いたしかたなく諒承し、鎮西八郎為朝
をはじめ、七人の子らを引き連れて院の御所へ参ることになった。 |