はたして新院は、 「美福門院の差し出口で、末弟の近衛院に位を奪われ、今また数にも入らぬ四の宮 (白河天皇)
などに位を取られたことの恨めしさよ」 と、内々仰せになったということである。 後白河天皇と新院との御仲が、こんな具合であったのに、臣下の間でもまた仲違いのことがあった。 当時の関白は藤原忠通
公、これは富家 殿
といわれた藤原忠実
の嫡男であった。また宇治の左大臣頼長
公と申す富家殿の次男、つまり忠通公の弟君があった。父の忠実公は、この頼長公を寵愛のあまり、兄の関白を差し置いて藤原氏の長者にすえ、摂政関白にだけ許される内覧
の役目まで与えられた。こうして兄の忠通公は名ばかりの関白となり、何の実権もなくなってしまった。そこで忠通公は、 「忠通の辞表を収められて、関白を左大臣につけられるか、あるいは内覧・長者の資格を忠通につけられるか、いずれかに御決裁あるべし」
と、しきりに訴え申し上げたが、天皇は道理と思し召しながらも、富家殿の御はからいであるうえは、おとり決めになることができなかった。 一方、左大臣も、後白河天皇の御代が続く限り摂政関白にはなることができない。何とかして兄の関白を押し込めて政権を執りたいものだとお考えになっていた。新院はこのことを聞いてお喜びになり、あるとき、ねんごろに左大臣と御相談のうえ、いよいよ御
謀反 を決意されたのである。 それ以来、天皇方と上皇方とに伺候する源平両家の武士たちは、親子も親戚も対立し、日本中が真っ二つにわれてしい、都の人びとは上下を問わず、
「上皇は御兄、天皇は御弟、関白殿は御兄、左大臣殿は御弟である。内裏の総大将は源義朝と平清盛。上皇方の総大将は義朝の父為義
、清盛の伯父忠正 である。こんなことでは日本国はもう終わりで、どちらが勝っても亡びてしまうに相違ない」
と、噂しあうのであった。 法皇の亡くなられた七月二日以来、各地から都へ入り込んだ武士たちが都大路を横行し狼藉
をきわめたので、信西
は勅命を承って官軍を手分けし、都周辺の関所の警固を命じたが、宇治橋を守る平家、安芸
判官 基盛
の手勢は、早くも院宣を奉じて上洛して来た源氏方、宇野
七朗親治 の一団と合戦し、親治を生け捕りにして、まず凱歌をあげる。 こうした混乱の中で、保元元年七月八日、皇居では公卿の会議が催され、左大臣藤原頼長の流罪が決定された。頼長の邸、東三条殿で天皇を呪詛
し奉る僧侶が捕らえられ、頼長の書状がその証拠物件として取り上げられたので、上皇と頼長による謀反の件は、すべて露顕してしまったからである。 |