第七十四代の帝
、鳥羽天皇と申し上げる方は堀河天皇の第一皇子である。嘉承
二年 (1107) 七月十九日、堀河天皇が崩御なさると、わずか五歳で御位におつきになられたが、やがて二十一歳で御位を第一皇子にゆずられた。この帝こそ讃岐国
(香川県) に流され給うて、讃岐院
とも申し上げた後の崇コ
天皇で、保元 の乱の中心になられた方である。 さて鳥羽天皇は、大治四年
(1129) 七月七日に白河院がおかくれになってからは、上皇として天下の政権を握られていたが、御后
の美福 門院
から皇子が誕生されると、崇徳天皇を退位させて、永治
元年 (1141) 十二月七日、まだお年も三歳というのに、この皇子を即位させられた。近衛
天皇がこの方である。それ以来、鳥羽上皇と新院 (崇徳上皇) 御父子の間が、急にけわしくおなりになった。 特別の御失政もなかったのに、崇徳天皇の御位を取り上げられたのはほかでもない、鳥羽院御寵愛
の美福門院の皇子として 近衛天皇が御誕生になったからである。しかし、この鳥羽院も三十九歳の若さで、同じ年に出家して法皇
とおなりになった。 ところが久寿二年 (1155) 春のころから近衛天皇は御病気になられ、さまざまな御祈祷のかいもなく、間もなく御位をゆずられると、十七歳の若さでおかくれになった。 いったい崇徳天皇の御在位十九年の間は、四海も波もおだやかで、不満を抱く者とてなかったのに、近衛天皇のような弟君、しかも第八皇子に御位をおし取られ給うたのであるから、この帝の亡くなられた今度こそは、たとい新院自らが再び御即位なさることはなくても、御子の第一の宮重仁
親王が、きっと帝位をお継ぎになるに相違ないと、だれでもが思っていた。ところがまたもや美福門院のおとりなしで、鳥羽院の第四の宮 (後白河天皇)
が御位におつきになったのである。 この天皇も新院の御弟君であったが、さきに亡くなられた近衛天皇は、新院の呪詛
によって御命を縮められ給うたという噂があったために、美福門院は新院をお恨みになり、鳥羽法皇にあれこれと申されて、新院の皇子、重仁親王の御即位を妨げられたのであった。 |