〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
あ らす じ

2012/04/29 (日) 鳥 羽 上 皇 の 院 政

第七十四代のみかど 、鳥羽天皇と申し上げる方は堀河天皇の第一皇子である。嘉承かしょう 二年 (1107) 七月十九日、堀河天皇が崩御なさると、わずか五歳で御位におつきになられたが、やがて二十一歳で御位を第一皇子にゆずられた。この帝こそ讃岐国さぬきのくに (香川県) に流され給うて、讃岐院さぬきいん とも申し上げた後の崇コすとく 天皇で、保元ほうげん の乱の中心になられた方である。
さて鳥羽天皇は、大治四年 (1129) 七月七日に白河院がおかくれになってからは、上皇として天下の政権を握られていたが、御きさき美福びふく 門院もんいん から皇子が誕生されると、崇徳天皇を退位させて、永治えいじ 元年 (1141) 十二月七日、まだお年も三歳というのに、この皇子を即位させられた。近衛このえ 天皇がこの方である。それ以来、鳥羽上皇と新院 (崇徳上皇) 御父子の間が、急にけわしくおなりになった。
特別の御失政もなかったのに、崇徳天皇の御位を取り上げられたのはほかでもない、鳥羽院御寵愛ちょうあい の美福門院の皇子として 近衛天皇が御誕生になったからである。しかし、この鳥羽院も三十九歳の若さで、同じ年に出家して法皇ほうおう とおなりになった。
ところが久寿二年 (1155) 春のころから近衛天皇は御病気になられ、さまざまな御祈祷のかいもなく、間もなく御位をゆずられると、十七歳の若さでおかくれになった。
いったい崇徳天皇の御在位十九年の間は、四海も波もおだやかで、不満を抱く者とてなかったのに、近衛天皇のような弟君、しかも第八皇子に御位をおし取られ給うたのであるから、この帝の亡くなられた今度こそは、たとい新院自らが再び御即位なさることはなくても、御子の第一の宮重仁しげひと 親王が、きっと帝位をお継ぎになるに相違ないと、だれでもが思っていた。ところがまたもや美福門院のおとりなしで、鳥羽院の第四の宮 (後白河天皇) が御位におつきになったのである。
この天皇も新院の御弟君であったが、さきに亡くなられた近衛天皇は、新院の呪詛じゅそ によって御命を縮められ給うたという噂があったために、美福門院は新院をお恨みになり、鳥羽法皇にあれこれと申されて、新院の皇子、重仁親王の御即位を妨げられたのであった。

『保元物語・平治物語』 発行所:角川書店  ヨ リ
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