清盛は、武家棟梁
としての立場を生涯実直に貫き、武人としての責務を全うした一方、独特のバランス感覚を持ち、諸方面への気配りを忘れることなく政治の世界でも台頭し、平氏
の繁栄を築き上げた人物である。そのような清盛を 「武家政権の創始者」 と評価することに異論はないだろう。王権
の命に基づく国家の警固
や諸国の武士の家人 編成、あるいは京都大番役
・地頭 職
・守護 職などといった面で、清盛の事績の多くが鎌倉
幕府 の体制に反映している。また、朝廷の意思決定過程に清盛が参画することで、武士の政治的権威を上昇させたこのの意味も大きい。 その後、頼朝
の開いた鎌倉幕府は、清盛に始まる 「武士による政治」 の実績を積み重ねて統治者としての武士の立場の正統性を確立させた。海外に目を向けたという清盛の姿勢に関しては、対外交渉という面ではきわめて内向きな鎌倉幕府の時代を経た後、日明
貿易を積極的に推進した足利
義満 の時代に清盛の構想が本格的に実現したということが出来よう。 だが、清盛が体現した、政治の中心に武士が位置するという状況はあまりに早く歴史の流れを先取りするものであったため、清盛自身の人物評価には、
「奢 り」 「過分
」 という言葉に代表されるような否定的イメージ・道義
的批判がつきまとうこととなった。 清盛の生涯を評した言葉といってよいであろう 「奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」 という 『平家
物語 』 の冒頭の一節は、そのような
「奢る」 清盛のオメージを示すものとしてよく知られているだろう。 「過分」 という評価については、清盛の死の報に接した 九条
兼実 による 「過分の栄華、古今に冠絶
するか」 ( 『 玉葉
』 治承 五 <1181>
年閏二月五日条) という評価や、鹿
ヶ谷 事件で捕縛された西光
が清盛に言い放った言葉として 『平家物語』 にみえる 「殿上
の交わりをだに嫌われし人 (忠盛
のこと) の子で、太政
大臣 までなりあがったるや過分なるらむ」
(巻二、西光被斬) などのような記述に見ることが出来る。 たしかに清盛が、摂関家
出身の人間でないにもかかわらず摂関家の所領を支配し、院にあらずして院政
同様の政治運営を行ったことは事実であり、そこに歴史の流れがもたらした一定の 「合理性」 「正統性」 があったにせよ、清盛の所業に対して 「奢り」 「過分」
といった世評が与えられることは自然な成り行きであった。また 「清盛落胤
説」 のような言説の成立にも、清盛の 「奢り」 「過分」 を現実として受け入れざるを得ない宮廷人の複雑な感情がかかわったのではなかったか。これらは、時代を先取りした者の宿命ともいうべきものであったろう。 だが、そのような評価のみからは、清盛の
「悪逆 非道
」 のイメージが導かれることは決してなかったはずである。ここで強調しなければならないことは、鎌倉幕府成立という歴史的事実が、清盛の否定的な人物像の形成にもっとも大きな影響を与えたということである。 清盛の死の直前、京周辺・畿内
・東国 で同時多発的に発生した巨大な反乱のうねりは清盛一門
を滅ぼし去り、そのあとに鎌倉幕府という東国に拠点を置く武家権力を含み込んだあらたな国家秩序が成立した。この秩序の担い手たちは、みずからの権力の正統性を主張するために、清盛に対して
「朝敵 」 「仏敵
」 という絶対悪の役割を与える論理を維持し続けた。 鎌倉幕府が編纂した歴史書 『吾妻鏡
』 の冒頭に、 「朝敵」 「仏敵」 としての清盛の討伐を命じる以仁王
令旨 が登場することは、そのような鎌倉幕府支配層の自己認識の端的な表れである。 |