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2012/04/26 (木) ふたたび平清盛のイメージをめぐって (一)

清盛は、武家棟梁ぶけのとうりょう としての立場を生涯実直に貫き、武人としての責務を全うした一方、独特のバランス感覚を持ち、諸方面への気配りを忘れることなく政治の世界でも台頭し、平氏へいし の繁栄を築き上げた人物である。そのような清盛を 「武家政権の創始者」 と評価することに異論はないだろう。王権おうけん の命に基づく国家の警固けいご や諸国の武士の家人けにん 編成、あるいは京都大番役おおばんやく地頭じとう しき守護しゅご 職などといった面で、清盛の事績の多くが鎌倉かまくら 幕府ばくふ の体制に反映している。また、朝廷の意思決定過程に清盛が参画することで、武士の政治的権威を上昇させたこのの意味も大きい。
その後、頼朝よりとも の開いた鎌倉幕府は、清盛に始まる 「武士による政治」 の実績を積み重ねて統治者としての武士の立場の正統性を確立させた。海外に目を向けたという清盛の姿勢に関しては、対外交渉という面ではきわめて内向きな鎌倉幕府の時代を経た後、日明にちみん 貿易を積極的に推進した足利あしかが 義満よしみつ の時代に清盛の構想が本格的に実現したということが出来よう。
だが、清盛が体現した、政治の中心に武士が位置するという状況はあまりに早く歴史の流れを先取りするものであったため、清盛自身の人物評価には、 「おご り」 「過分かぶん 」 という言葉に代表されるような否定的イメージ・道義どうぎ 的批判がつきまとうこととなった。
清盛の生涯を評した言葉といってよいであろう 「奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」 という 『平家へいけ 物語ものがたり 』 の冒頭の一節は、そのような 「奢る」 清盛のオメージを示すものとしてよく知られているだろう。
「過分」 という評価については、清盛の死の報に接した 九条くじょう 兼実かねざね による 「過分の栄華、古今に冠絶かんぜつ するか」 ( 『 玉葉ぎょくよう治承じしょう 五 <1181> 年閏二月五日条) という評価や、鹿ししたに 事件で捕縛された西光さいこう が清盛に言い放った言葉として 『平家物語』 にみえる 「殿上でんじょう の交わりをだに嫌われし人 (忠盛ただもり のこと) の子で、太政だじょう 大臣だいじん までなりあがったるや過分なるらむ」 (巻二、西光被斬) などのような記述に見ることが出来る。
たしかに清盛が、摂関家せっかんけ 出身の人間でないにもかかわらず摂関家の所領を支配し、院にあらずして院政いんぜい 同様の政治運営を行ったことは事実であり、そこに歴史の流れがもたらした一定の 「合理性」 「正統性」 があったにせよ、清盛の所業に対して 「奢り」 「過分」 といった世評が与えられることは自然な成り行きであった。また 「清盛落胤らくいん 説」 のような言説の成立にも、清盛の 「奢り」 「過分」 を現実として受け入れざるを得ない宮廷人の複雑な感情がかかわったのではなかったか。これらは、時代を先取りした者の宿命ともいうべきものであったろう。
だが、そのような評価のみからは、清盛の 「悪逆あくぎゃく 非道ひどう 」 のイメージが導かれることは決してなかったはずである。ここで強調しなければならないことは、鎌倉幕府成立という歴史的事実が、清盛の否定的な人物像の形成にもっとも大きな影響を与えたということである。
清盛の死の直前、京周辺・畿内きない東国とうごく で同時多発的に発生した巨大な反乱のうねりは清盛一門いちもん を滅ぼし去り、そのあとに鎌倉幕府という東国に拠点を置く武家権力を含み込んだあらたな国家秩序が成立した。この秩序の担い手たちは、みずからの権力の正統性を主張するために、清盛に対して 「朝敵ちょうてき 」 「仏敵ぶってき 」 という絶対悪の役割を与える論理を維持し続けた。
鎌倉幕府が編纂した歴史書 『吾妻鏡あずまかがみ 』 の冒頭に、 「朝敵」 「仏敵」 としての清盛の討伐を命じる以仁王もちひとおう 令旨りょうじ が登場することは、そのような鎌倉幕府支配層の自己認識の端的な表れである。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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