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2012/04/27 (金) ふたたび平清盛のイメージをめぐって (二)

鎌倉幕府の滅亡、建武けんむ 政権の成立と崩壊、室町むろまち 幕府の成立と南北朝なんぼくちょう 動乱の開始といった歴史の流れを足利氏に近い立場で描く歴史書 『梅松論ばいしょうろん 』 には、将軍によって討伐された謀反むほん span>にんを列挙した箇所で、清盛について 「その功に誇りて政務をほしいまま にし、朝威を背き、悪逆無道なりしほどに」 頼朝に討たれたことが特筆されている。 「悪逆非道な平氏を討って成立した鎌倉幕府の正統性を受け継ぐ室町幕府」 という図式において、清盛のこのような位置付けは不可欠であった。
なお、南朝なんちょう に近い立場から 『梅松論』 と同じ時期の歴史叙述を行う 『太平記たいへいき 』 においても、物部ものべの 守屋もりや蘇我そがの 入鹿いるか長屋ながや おう恵美えみの 押勝おしかつ藤原ふじわらの 純友すみとも ・藤原頼長よりながみなもとの 為義ためよし安倍あべの 貞任さだとう ・源義仲よしなか北条ほうじょう 高時たかとき などとともに清盛が 「日本朝敵」 として列挙されている。中世には、清盛は歴代の 「朝敵」 リストの中に明確にその名を刻み込まれていたのである。
江戸えど 時代の清盛像について一点だけふれると、江戸中期の儒学者じゅがくしゃ である新井あらい 白石はくせき の 『読史とくし 余論よろん 』 のなかでは、北畠きたばたけ 親房ちかふさ の 『神皇じんのう 正統記しょうとうき 』 を引く形で、清盛たち平氏一門が多くの官位かんい ・所領を得たために 「王室の権さらになきがごときになりぬ」 とか、 「清盛悪行をのみ」 行ったために高倉たかくら 天皇が譲位を思い立ったことなどが記されている。江戸幕府が源家げんけ 将軍家の正当な継承者を標榜ひょうぼう するかぎり、江戸時代の支配層が持つ清盛感観は否定的なものにならざるを得なかっただろう。
そして、以仁王令旨にもみえる 「清盛=仏敵」 とする規定が、清盛の評価をさらに低めることとなる。清盛を死に至らしめた熱病が神仏に逆らった 「悪行」 の報いであるとする認識は、 『平家物語』 の叙述によって広く知られているが、 『平家物語』 のような軍記文学以外に、死の床で清盛が熱病に苦しむ姿を描く実録的史料である 『養和ようわ 元年記がんねんき 』 が、興福寺こうふくじ 僧の手によるものであることには注意を要する。 「南都なんと 焼討ち」 の災厄をこうむった興福寺の関係者にとって清盛はまさに仏罰を受けるべき存在であったろうが、その評価は清盛の最晩年の事績のみに起因するといってよいものである。
清盛の全生涯の事績を通してみるならば、清盛は延暦寺えんりゃくじ をはじめとする有力寺社勢力には宥和ゆうわ てき であり、概してその利益を擁護する立場を取り続けていたことは、本書のこれまでの叙述で明らかであろう。また、 『平家物語』 には、清盛が平安へいあん 時代中期の僧で比叡山ひえいざん 中興ちゅうこう の祖とだれる良源りょうげん (慈恵じえ 大師だいし ) の生まれ変わりであるとする伝承が記されており、清盛が仏教信仰に厚かったことをうかがわせる。だがそのような清盛像は、長い歴史の流れのなかで後景に押しやられることとなってしまったのである。
また、上記のような事柄に加えて、経島きょうじま を築造する際に人柱をささげたとする清盛の所業が、室町時代以降に隆盛した幸若舞こうわかまい の作品に描かれることで人口に膾炙かいしゃ し、清盛の 「非道」 なイメージを増幅させていくこととなった。
以上のような形ではぐくまれてきた伝統的な清盛認識は、 「堕落した平氏は質実剛健な源氏に負けるべくして負けた」 とする単調な源平内乱史観の根拠として、かなり根強く日本人の歴史観に影響をあたえているように思われる。
近代の歴史学の清盛認識について簡単のふれると、さすがに 「悪逆非道」 のごとき大義たいぎ 名分論めいぶんろん 的評価をもって清盛を論ずることはみられなくなるものの、日本中世史学の創始者ともいうべきはら 勝朗かつろう の 『日本中世史』 では、本来の武士の姿を放棄した清盛一門が貴族きぞく 化して藤原氏と同質化したことが指摘され、武士の立場を貫いて鎌倉幕府を開いた源頼朝との対比が強調されている。その後、武士階級を歴史の進歩の担い手とする原の歴史認識の枠組みに基づく在地ざいち 領主りょうしゅ 制論せいろん 的アプローチによる研究でも、同様な清盛評価が継承されていく。
戦後歴史学においても、清盛の政権は貴族政権か武家政権かという形での議論がしばらく続いたが、一九七〇〜八〇年代以降の日本史学研究では、院政期を日本の中世の始期ととらえる時代区分観の確立と連動して、清盛を明確に武家政権の創始者ととらえ、その達成が後世に与えた影響の大きさや平氏政権と鎌倉幕府の連続性に着目する研究が多く発表され、清盛の実像に対する学問的理解h大きく変容するにいたった。
そのような清盛に関する認識の変化が、一般的な、あるいは歴史教育における清盛像理解に影響を与えはじめていることも間違いないだろう。清盛という人物を論じるうえで、いまや 「悪役」 としての清盛像の形成過程そのものを、歴史事象として対象化すべき段階にいたっている。清盛が 「悪役」 とされてきた理由を、清盛の実際の事績との比較検討から理解することは、一人の人物のイメージが歴史の流れのなかで大きくゆがめられた事例を学ぶうえで格好の素材となるに違いない。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ