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独 裁 政 権 へ の 道

2012/04/26 (木) 東国での戦乱と南都焼討ち

八月、以仁王の令旨に応えて源頼朝が伊豆いず で挙兵した。予想されたこととはいえ、義朝の遺児である頼朝も挙兵は、東国武士たちを束ねる旗印が明確になったことを意味し、清盛たちにとって大きな脅威となったに違いない。
平治の乱では、東国武士の援軍を得られなかったことが義朝の敗因となったが、みずからが東国にいて多くの関東武士を糾合する条件を備えた頼朝の場合はまったく事情が異なっている。
清盛は、八月の段階で私的命令を大庭景親にくだして頼朝の反乱の鎮圧を命じ、九月五日になって頼朝追討宣旨せんじ を受けている。ここに 「 朝敵ちょうてき 」 頼朝と武家棟梁清盛との戦いが開始されることになった。
清盛より頼朝追討の期待を受けた大庭景親であるが、鎌倉を目指して相模国にはいった頼朝たちを伊東いとう 裕親すけちか とともに石橋山いしばしやま で包囲しながら、頼朝の海上への脱出を許してしまう。その後安房あわ に渡った頼朝が軍勢を拡大させながら房総ぼうそう 半島を北上し、武蔵国・相模国そして鎌倉へと威風堂々の進軍を果たすことは周知のとおりである。こうして、頼朝の反乱を早期にしずめようとする清盛の思惑は、根底から狂ってしまったのである。
そして十月二十日、頼朝追討の命を受けて東下した維盛これもり が、富士ふじ がわ の戦いで甲斐かい 源氏に敗北し、十一月五日に敗軍の将として福原に戻っている。東国武士との緒戦に続けて敗北を喫したことで、福原に軍事拠点を定める清盛の戦略は大きな打撃を受けた。宗盛と激しい口論を戦わせたあと、清盛は結局 「遷都反対派」 の意見に同意し、十一月二十三日から二十四日にかけて 「還都かんと 」 がなされ、二十九日には清盛自身も上洛じょうらく いている。
清盛の立場はきわめて苦しいものとなった。十一月三十日に上皇御所ごしょ で行われた議定では、参議さんぎ 藤原長方ながかた による後白河院政の復活と基房の帰京を主張する発言がなされた。これは前年の 「清盛クーデター」 に対する正面からの批判を意味するものであった。ちなみに長方は、清盛の後白河幽閉を諌め、福原遷都に際し京に留まったため 「留守るす 中納言」 と称された人物である (翌年に中納言に昇進) 。このような状況の中で、やむなく清盛は十二月十八日に後白河の政務復帰を要請している。
この年の末になると、平氏は南都興福寺の動向にふたたび警戒感を強めるようになった。十一月から十二月にかけて激しさを増した近江おうみ 源氏の軍事行動と興福寺の連携が強まることに、平氏は脅威を感じ始めていたのである。そこで清盛は、十二月に家人の妹尾せのお 兼康かねやす大和やまと 国に派遣したが、まだこの段階での興福寺に対する清盛の姿勢は、必ずしも強硬なものではなかったように思われる。
しかし、興福寺大衆だいしゅう が兼康勢の武士六十余人の首をはねるという挙に出たために清盛は激怒し、十二月二十五日に重衡しげひら を大将軍として南都に派遣して本格的な攻撃を開始した。激しい合戦かっせん ののち、平氏の武士の放った火が南都を焼き尽くし、興福寺・東大寺とうだいじ の大部分が焼失してしまった。興福寺大衆の挑発に乗った結果とはいえ、このいわゆる 「南都焼討ち」 は、清盛の代表的な 「悪行あくぎょう 」 の一つとして人びとの記憶のなかに刻まれていくこととなる。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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