一一八一 (治承5) 年正月八日に宗盛が畿内
惣官職 に任じられ、東国の源氏との戦いに備えた軍政の体制がしかれている。そして正月十四日に、病の床にあった高倉上皇が二十一歳の若さで没すると、規定方針通りに後白河の院政が復活する。前述したように、清盛は後白河の院政復活を容認したが、正月七日に後白河の側近である平知康
・大江 公朝
・武田 有義
といった人物を解官して、後白河の権力行使に制約を加えることを忘れてはいなかった。 そして、形ばかりの院政復活を許された後白河に対して清盛がとった行動は、正月二十五日に、厳島内侍
に生ませた安芸 御子
姫君 (後の冷泉局)
を入内 させるというものであった。その直前に徳子
が後白河に入内するという案が示され、清盛と時子
がこれを拒絶したとの風説までが流れている。徳子に関する風説の真偽は判然としないが、場当たり的な 後宮
政策で、政治対立を解消させ危機を乗り切ろうとする清盛あるいは後白河の思惑を見て取ることが出来よう。 もっともこの段階では、清盛の独裁政権の正統性をかろうじて支える存在は安徳天皇のみであったといわざるを得ない。二月十七日、警護の便を理由として、周囲の反対を押し切って安徳天皇を平頼盛の八条邸に移したことは、政治的正当性の保持のデモンストレーションというところであろうか。 だが、政権維持のための清盛のあがきはこれが最後であった。二月後半に、病魔が清盛を襲ったのである。激しい発熱に苦しみながら、閏
二月四日に八条河原 の平盛国
邸で清盛は波乱の生涯を終える。享年六十四歳であった。 清盛の遺言については、 「頼朝の首を墓の前にかけろ」 ( 『平家物語』
) 、 「一族の者は最後の一人でも骸
を頼朝の前にさらせ」 ( 『玉葉』 ) 、 「一門の者は東国の平定のみ行え」 (
『吾妻鏡』 ) などといった内容が諸書にみえ、清盛が東国の情勢に執心しながらこの世を去ったことを示している。 また四日の朝、死を予感した清盛は、
「万事を宗盛に命じたので、天下のことを宗盛とはかってほしい」 との意思を後白河に伝えているが、後白河からの明確な回答はなかった。閏二月八日に行われた清盛の葬儀の日、最勝光院の御所で今様
を歌い興じる後白河の姿は、決裂が修復されることなく終わった両者の関係を象徴している。あるいは後白河は、すでにその眼差しを、あらたな政治提携の相手とすべく東国の頼朝に向けていたのかも知れない。 清盛の遺体は、愛宕
の珍皇寺 で荼毘
にふされ、遺骨は福原の経島
におさめられたとも、播磨
国山田 の法華
堂 に埋葬されたとも伝えられる。 |