以仁王
は、諸国の源氏武士や大寺院に宛てて令旨
を発し、後白河を幽閉してその院政を停止し、多くの近臣
たちの官職を奪い去った清盛の所業を 「謀
反人 」 のそれと断じ、清盛の追討を呼びかけた。この令旨は、
『吾妻 鏡
』 や 『延慶本
平家 物語
』 などにおさめられたことで広く世間に知られ、その内容は後世の人びとの清盛像の形成に決定的な影響を与えることとなる。 以仁王の動きを知った平氏は、五月十五日に邸宅に検非違使
庁 の官人を向かわせて身柄の確保をはかったが、王はからくもこれを逃れ、
園城寺 に逃れる。実は、以仁王が清盛打倒計画を立てていた証拠は明らかでなく、源頼政と連携した軍事行動の準備の具体的情況も不明である。鹿
ヶ谷 事件の時と同様、反対勢力を抹殺すべく、平氏が先手を打ったとみることも不可能ではない。 園城寺を出て南都
の興福寺 に向かった以仁王は、五月二十六日に南山城
で討たれ、王に味方して反平氏の挙兵をした源頼政も敗れ宇治
平等院 で自害する。 このように以仁王の反乱そのものはあっけなく終わりを告げたが、王の発した令旨は、清盛たち平氏に反感を持つすべての勢力に戦いの大義
名分 を与えるものとして、きわめて大きな力を発揮した。 前年の
「清盛のクーデター」 以降、急激に大量の知行国を得た平氏は、国司
と対立する多くの地方武士の不満・反感を一身に受け止める状況となっており、天皇家に属する人物の 「清盛追討令」 は、王の死後も諸国の武士による打倒平氏の戦いの原動力となっていった。 五月二十七日に朝廷では、以仁王の行動の過程で軍事的脅威であることが明らかとなった興福寺に対する攻撃の可否をめぐって議定
がなされた。議定では、藤原隆李
・源通親 による興福寺の即時攻撃の意見が示され、藤原氏の氏寺
が戦火に巻き込まれることを恐れる九条兼実と意見を対立させている。実は、隆李と通親の発言の背景には、主戦論に立つ平宗盛
の主張があった。 ところが、この宗盛の考えは清盛のそれとは大きく異なっており、清盛は、興福寺の脅威から逃れるために後白河・高倉・安コを都から福原に移すことを意図していた。 清盛と宗盛の齟齬
は、ほぼ一貫して一枚岩であり続けた平氏一門の軍事指揮体系に重大な亀裂が生じ始めたことを意味する。以仁王の敗死の報が届いたことによって当面興福寺との戦いが回避される一方で、清盛の構想は直ちに実行に移されていく。。 五月二十八日、清盛は高倉上皇に頼政の首を見せたあと、大番役
のため在京している東国武士の帰京を引きとめ、相模国
の大庭 景親
に対して東国の軍事事情を警戒するよう指示している。 大庭景親は桓武
平氏流鎌倉党 の武士で、源義朝
の家人として保元 の乱
に参戦し、義朝が滅亡したあとは清盛に仕え、清盛にとっての 「東国ノ後
後見 」 ( 『源平
盛衰記 』 )
とされた人物である。この時期の景親は清盛より相模国の平家家人を束ねる役割を与えられており、その立場は、鎌倉幕府
体制における一国 守護
のそれと同様のものであった。 このような状況下の六月二日、清盛は後白河・鳥羽・安コを福原に移す、いわゆる 「福原遷都
」 を断行した。清盛の眼は遠く頼朝
のいる東国に向けられており、防御には不向きな京を離れ、福原という新たな軍事拠点に基盤を据えて東国武士との戦いに備えることが、清盛の基本戦略であったといえよう。 |