高倉
天皇への奉仕を本務としつつ、同時に後白河との関係を少しでも良好に保とうとしていた清盛であったが、その忍耐も限界に達し、ついに最終的な手段が発動されるにいたる。 一一七九
(治承3) 年十一月十四日、清盛は数千騎の武士を率いて福原
より上洛 し、十五日に後白河上皇
の院政 を停止したばかりか、十九日には後白河上皇の身柄を鳥羽
殿 に幽閉
した。十一月十七日には清盛の指示によって、後白河上皇に近い勢力とみなされた四十人ほどの貴族が解官
されている。 解官された貴族の中には関白
の職を解かれた基房がいたが、その罪科には、前述したような十月九日の除目
で子の師家を権中納言にしたことがあげられている。また、解官された者の中には頼盛
の名があったが、これは万一にも彼が清盛に抵抗する動きをみせないようにするための措置であったと考えられる。頼盛をみずからの統制下に入れて久しい清盛であったが、まだ警戒の念を敢然には払いきってはいなかったのである。 同時に清盛は、後白河の持つ所領を高倉の後院
領とし、まもなく開始されることとなる高倉の院政の経済基盤に組み込んだ。さらに清盛は、あらたな関白となった藤原基通の家司
に藤原光雅 を指名し、摂関家の所領管理にあたらせた。 この辺りの一連の措置をみると、清盛と後白河の対立の根幹に所領問題が深い関わりをもっていたことを改めて知ることが出来る。 十一月十八日には、基房や後白河側近の貴族の配流
・追放処分がくだされ、敵対勢力の徹底的な殲滅
を終えた清盛は、二十日に福原へ戻っている。 以上のような清盛の措置を、学界では 「治承三年清盛のクーデター」 と呼んでいる。 「清盛のクーデター」 がもたらした朝廷政治のあらたな体制は、形式的には高倉天皇の親政であった。ちなみに十二月八日になって後白河の幽閉は解かれているが、後白河が院政を復活させたわけではもちろんない。 「清盛のクーデター」
を政治構造論的に分析すると、人事面での激しい動きを伴いながらも、天皇の政治を清盛が支えるという政治構造の変化がこの政変の前後にあったわけではなく、後白河の院政停止ということ自体にも前例はあった。したがって、この事件の政治的意義を過大評価すべきではないという見解も成り立ちうるのだが、後白河を鳥羽殿に幽閉し、強圧的な態度で多数の貴族の官職を奪い去った清盛の行動は、
「平氏の独裁体制」 の出現とともに、清盛の振舞いの 「非道さ」 を多くの人びとに直感させるものであった。このあとまもなく顕在化する、清盛の権力を打倒しようとする行動の道義的根拠は、まさにこの直感に求められていくこととなる。 十二月十六日、厳戒態勢の中を高倉の皇子言仁
新王 が清盛の八条邸
に行啓 した。清盛はこのとき、孫の指をなめてつぎつぎに障子に穴をあけては感涙にむせんだという。 一一八〇
(治承4) 年二月二十一日、言仁親王が践祚
し (安徳天皇) 、清盛はついに天皇の外祖父の立場を得た。同時に高倉上皇の院政が開始され、高倉の関白であった藤原基通が摂政となっている。 三月になって清盛は、譲位したばかりの高倉を福原および厳島に行幸
させたが、譲位後初の上皇の行幸先を賀茂
社 または八幡社
とする先例を破るこの出来事は、伝統的宗教勢力を著しく刺激するものであった。清盛もそのことを十分に承知しており、厳戒態勢をしいたうえで、高倉の福原・厳島行幸を強行している。 四月十七日に醍醐
寺 の辺りで清盛調伏
の 祈祷 が行われたとの噂
が流れるなど不穏な情勢のもと、四月二十二日、内裏
紫 宸殿
で安コの即位の儀が執り行われた。 このあとまもなく、安コの即位によってみずからの皇位継承の道を断たれたことに恨みをもった、あるいはより慎重な表現をするならば、そのような恨みを持っていると疑われた人物の行動が、清盛の政権を滅亡の道へとあゆませていくこととなる。その人物とは、後白河の第三皇子に生まれながら親王宣下
すら受けられず、後白河の妹にあたる八条院ワ子
内親王 の庇護を頼りとして、皇位継承に一縷
の望みをつないでいた以仁王
である。 |