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独 裁 政 権 へ の 道

2012/04/26 (木) 孤 立 す る 清 盛 (二)

宗教権威に依拠して平氏の政治的立場の安定化をはかろうとす焦る清盛を、ふたたび一族の不幸が襲った。六月十七日に、摂関せっかん と清盛を結びつける存在として重要な役割を果たしてきた盛子せいこ が没したのである。九条くじょう 兼実かねざね は 「異姓の身で摂関家を押領おうりょう したから春日かすが 大明神だいみょうじん の罰がくだった」 との感想を日記 『玉葉ぎょくよう 』 に記しているが、これは多くの藤原氏の貴族きぞく が抱く偽らざる感慨であったといえよう。
そして、かねてより政治に対する関心を失い病気がちでもあった 重盛しげもり が、五月二十六日に出家したのち、七月二十九日に没する。八月になって 「盛子・重盛の死は西光さいこう怨霊おんりょう によるものである」 という趣旨の落書らくしょ が禁中でみつかっているが、これは肥大化し始めた平氏に対する反発を反映したものといえるだろう。
そのような状況の清盛に対し、後白河は七月二十五日に、内紛の発生した延暦寺に対する攻撃命令をくだしている。例によって延暦寺との戦いを望まない清盛の動きは鈍く、しばらくの間はなかなか追討使ついとうし を派遣しようとはしなかった。この時点での清盛に対する後白河の命令は、清盛の軍事力に期待したというより、清盛を苦境に立たせることを承知したうえでの仕打ちであったといってよいだろう。
難題の処理に追われる清盛にたたみかけるような反清盛勢力の動きがなおも続く。
七月になって重盛がもっていた知行国である 越前えちぜん を後白河が没収したり、盛子が管轄していた摂関家領を後白河の支配下においたりしたことは、後白河による清盛の権益に対する侵害行為であった。
また、十月九日に、藤原ふじわらの 基房もとふさ の子である師家もろいえ基通もとみち などを飛び越えて八歳でごんの 中納言ちゅうなごん に任じられたことは、基通を支えてきた清盛の神経を逆なでする人事であり、清盛の権威に対するあからさまな挑戦であった。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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