宗教権威に依拠して平氏の政治的立場の安定化をはかろうとす焦る清盛を、ふたたび一族の不幸が襲った。六月十七日に、摂関
家 と清盛を結びつける存在として重要な役割を果たしてきた盛子
が没したのである。九条
兼実 は 「異姓の身で摂関家を押領
したから春日 大明神
の罰がくだった」 との感想を日記 『玉葉
』 に記しているが、これは多くの藤原氏の貴族
が抱く偽らざる感慨であったといえよう。 そして、かねてより政治に対する関心を失い病気がちでもあった 重盛
が、五月二十六日に出家したのち、七月二十九日に没する。八月になって 「盛子・重盛の死は西光
の怨霊 によるものである」
という趣旨の落書 が禁中でみつかっているが、これは肥大化し始めた平氏に対する反発を反映したものといえるだろう。 そのような状況の清盛に対し、後白河は七月二十五日に、内紛の発生した延暦寺に対する攻撃命令をくだしている。例によって延暦寺との戦いを望まない清盛の動きは鈍く、しばらくの間はなかなか追討使
を派遣しようとはしなかった。この時点での清盛に対する後白河の命令は、清盛の軍事力に期待したというより、清盛を苦境に立たせることを承知したうえでの仕打ちであったといってよいだろう。 難題の処理に追われる清盛にたたみかけるような反清盛勢力の動きがなおも続く。 七月になって重盛がもっていた知行国である
越前 を後白河が没収したり、盛子が管轄していた摂関家領を後白河の支配下においたりしたことは、後白河による清盛の権益に対する侵害行為であった。 また、十月九日に、藤原
基房 の子である師家
が基通 などを飛び越えて八歳で権
中納言 に任じられたことは、基通を支えてきた清盛の神経を逆なでする人事であり、清盛の権威に対するあからさまな挑戦であった。 |