天皇家との外戚
関係を確保したことで清盛の地位は磐石
になったかに見えたものの、一面で清盛一門
は、朝廷 社会の中に協調者を持たぬ孤立した状況におかれつつあった。 一一七八
(治承2) 年十二月二十四日に清盛の奏請
によって、平治 の 乱
後に唯一勢力を温存した源氏
である源 頼政
が 三位 に叙されているが、これは源氏と
平氏 のバランスを少しでも保とうとする清盛らしい配慮の表れである一方、孤立感を強める清盛が、危険な存在になるかねない頼政を取る込む狙いによるものともいえるだろう。 軍事的に平氏の支配を脅かし得る存在が源氏武士である以上、清盛の目は、頼政など畿内
の源氏武士だけでなく、清和
源氏の武家 棟梁
との関係が深い東国
武士団にも向けられざるを得なかった。一一七九 (治承3) 年になって清盛が富士
参詣 を試みたことは、そのような清盛の警戒感の表れといえる。 結局正月十二日になって、翌日に予定されていた清盛の富士参詣の出立は中止され、かわって企図された武蔵国
知行 国主
知盛 の代参
も取りやめとなったが、清盛の富士参詣には、東国地域に対する軍事視察を行うとともに、東国の信仰の拠点にみずからが赴くことによって、東国の平家家人
に対する統制を強める目的があったことは疑いなかろう。厳島
社に対する信仰を用いた西国
武士の統制と同様のことを、清盛は東国でも行おうとしたのである。 だが、この試みが中止となったことは、清盛が長期間にわたって京を離れることに不安を感じる一門の者たちの反対によるものと思われ、それほどに平氏一門の危機感は大きかったことが推測される。 このように東国の信仰の拠点である富士への配慮を試みた清盛は、厳島社に関しても、都と畿内および周辺の伝統的宗教権門
に匹敵するだけの格を高めようとする意図を有し、二月に厳島を二
十 二
社 の社格に加えようと試み、他の有力神社の反対によって挫折している。またこのころ、清盛が公卿
たちに盛んに厳島参詣を勧めていたことも、厳島社の権威を少しでも高めようとする意志の表れであったといえよう。 |