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独 裁 政 権 へ の 道

2012/04/26 (木) 孤 立 す る 清 盛 (一)

天皇家との外戚がいせき 関係を確保したことで清盛の地位は磐石ばんじゃく になったかに見えたものの、一面で清盛一門いちもん は、朝廷ちょうてい 社会の中に協調者を持たぬ孤立した状況におかれつつあった。
一一七八 (治承2) 年十二月二十四日に清盛の奏請そうせい によって、平治へいじらん 後に唯一勢力を温存した源氏げんじ であるみなもとの 頼政よりまさ三位さんみ に叙されているが、これは源氏と 平氏へいし のバランスを少しでも保とうとする清盛らしい配慮の表れである一方、孤立感を強める清盛が、危険な存在になるかねない頼政を取る込む狙いによるものともいえるだろう。
軍事的に平氏の支配を脅かし得る存在が源氏武士である以上、清盛の目は、頼政など畿内きない の源氏武士だけでなく、清和せいわ 源氏の武家ぶけの 棟梁とうりょう との関係が深い東国とうごく 武士団にも向けられざるを得なかった。一一七九 (治承3) 年になって清盛が富士ふじ 参詣さんけい を試みたことは、そのような清盛の警戒感の表れといえる。
結局正月十二日になって、翌日に予定されていた清盛の富士参詣の出立は中止され、かわって企図された武蔵国むさしのくに 知行ちぎょう 国主こくしゅ 知盛とももり代参だいさん も取りやめとなったが、清盛の富士参詣には、東国地域に対する軍事視察を行うとともに、東国の信仰の拠点にみずからが赴くことによって、東国の平家家人けにん に対する統制を強める目的があったことは疑いなかろう。厳島いつくしま 社に対する信仰を用いた西国さいごく 武士の統制と同様のことを、清盛は東国でも行おうとしたのである。
だが、この試みが中止となったことは、清盛が長期間にわたって京を離れることに不安を感じる一門の者たちの反対によるものと思われ、それほどに平氏一門の危機感は大きかったことが推測される。
このように東国の信仰の拠点である富士への配慮を試みた清盛は、厳島社に関しても、都と畿内および周辺の伝統的宗教権門けんもん に匹敵するだけの格を高めようとする意図を有し、二月に厳島を じゅう しゃ の社格に加えようと試み、他の有力神社の反対によって挫折している。またこのころ、清盛が公卿くげ たちに盛んに厳島参詣を勧めていたことも、厳島社の権威を少しでも高めようとする意志の表れであったといえよう。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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