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王権への奉仕者の栄光と苦悩

2012/04/25 (水) 鹿 ヶ 谷 事 件 (一)

一一七七 (治承元) 年四月、加賀かが白山社はくさんしゃ とその本寺ほんじ にあたる延暦寺が加賀守藤原師高もろたか を訴える事件が起きた。師高は、後白河近臣の一人である西光さいこう の子にあたる。事の発端は、三月に起きた白山社の末寺である 河寺かわでら と加賀国目代とのあいだの闘乱事件であり、これ自体は、平安時代中・後期に荘園支配をめぐって頻発した受領と有力寺社の争いの一つであったが、かかわった人びとの顔ぶれが清盛をこの事件に深く巻き込み、苦慮を強いることとなったのである。
前述した嘉応年間 (1169〜71) の事件と同様に、延暦寺による近臣の処罰の要求に直面した後白河は、この時も当初は武士の力を頼りに強硬な態度で延暦寺の強訴に対処しようとした。だか結局は延暦寺の要求に屈する形で、四月二十日に藤原師高の尾張国配流が決定する。なおこの時、強訴に備えて後白河よりない どころ の警護を命じられた平経盛つねもり (清盛弟) が、清盛の指示がないことを理由に命令を拒絶する事態が起きている。嘉応年間の事件でも露呈した後白河の軍事指揮権と福原にいる清盛の軍事指揮権が並存することの矛盾が、ふたたび表面化したのである。
子の師高に配流という処分が下された西光は不満を持ち、後白河に延暦寺側の処罰を求めた。一時的には延暦寺の強訴にふたたび屈する形となった後白河であったが、近臣の強い要求に動かされ、五月になって天台座主明雲に延暦寺の悪僧の身柄引き渡しを命じるとともに、一連の事件の責任により、座主の罷免さらには伊豆いず 国への配流という処分を下した。近臣への敵対行動を取る延暦寺に対して、後白河はついに堪忍袋の緒を切ったのである。
だが、延暦寺の衆徒たちの怒りもすさまじく、配流地に向かう途中で明雲の身柄を奪い取るという行動に出る。延暦寺との全面対決を強いられた後白河は、五月二十八日に比叡ひえい ざん の東西からの延暦寺攻撃を清盛に命じる。この時点で平氏一門を率いて行う国家守護の権限は重盛にあったはずだが、その権限は否定され、ふたたび清盛みずからによる軍事動員が復活する形となった。
延暦寺との合戦によって 「仏敵」 の汚名を受けることも、後白河の命にあからさまに逆らうことも、もとより清盛の望むところではなかった。ここまでの叙述で示してきたように、清盛にとって類似の状況はこれまでにもあったが、この時ほど深刻に清盛が後白河と延暦寺の板挟みに苦慮することはなかったといってよい。だが、事態は思わぬ方向に推移し、直後に起きた 「鹿ヶ谷事件」 が清盛のピンチを救うことになる。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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