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王権への奉仕者の栄光と苦悩

2012/04/26 (木) 鹿 ヶ 谷 事 件 (二)

一一七七年六月一日、後白河上皇の近臣である藤原成親・西光・平康頼やすより俊寛しゅんかん らが、京都近郊の東山ひがしやま にあった俊寛の山荘である鹿ヶ谷 ( 『愚管抄』 によれば信西の子静憲じょうけん の山荘) で平氏打倒の密議を行ったとされる、いわゆる鹿ヶ谷が起こる。
『平家物語』 などによると、実際に鹿ヶ谷で行われたことは、平氏に対する悪態をつきながら酒宴が盛り上がったという程度のものだったようだが、鹿ヶ谷での出来事は、その場に居合わせた摂津せっつ 源氏げんじ多田ただの 行綱ゆきつな によって 「平氏打倒の密議」 として、平氏に密告されてしまった。平氏はこれを謀反の企てとして関係者を厳しく処断し、西光を斬罪、成親を備前国配流に処し (後に配流地で殺害) 、俊寛と康頼を鬼界島きかいがしま に流している。
この事件の結果、延暦寺と院近臣の対立に端を発した緊張状態はあっけなく解消され、清盛も苦境から解き放たれることとなった。しかし西光たちの陰謀の発覚は、いかにもタイメングがよすぎ、事態の推移には裏があったとみるしかないだろう。すなわち、延暦寺との衝突をなんとかして避けたい清盛が、後白河近臣たちの平氏一門への強い反発を逆手に取り、密告者を仕立てて (多田行綱が密告者であることは、実は良質の史料からは確かめられない) なかば陰謀をでっち上げて、延暦寺との対立の要因となった院近臣たちを一挙に葬り去ったというのが、事件の実相だったのではないだろうか。
以上のような経過を経て、清盛はともかくも延暦寺との武力衝突を回避することが出来た。しかし後白河は、信頼する院近臣の多くを処罰されたことにより、清盛に対して深い恨みを持った。これまでにも両者の対立の契機は存在し、時にその対立状況が表面化することはあったが、この事件のあとは、それ以前とは比べものにならないほど深い亀裂が両者の間に生じたのである。
なお、事件後に殺害された成親の妹を妻に持つ重盛は、成親の助命がかなわなかったことに落胆し、六月五日に左大臣を辞している。これ以後、武家ぶけの 棟梁とうりょう としての職務遂行に意欲を失った重盛にかわり、重盛の弟の宗盛が平家一門を率いることになった。かりにフレームアップであったにせよ、縁者が平家打倒の密議に加わったとされた重盛の立場が弱まることは不可避であったろう。
明くる一一七八 (治承2) 年の正月、二月一日に予定された後白河の園城寺おんじょうじ における秘密灌頂かんじょう をめぐって、延暦寺の衆徒たちが園城寺の焼討ちをはかるという噂が流れた。このような事態が生じたとき、本来ならば後白河が清盛に命じて延暦寺衆徒の暴発を防がせるところであるが、二月二十一日に福原で宗盛と清盛の協議が行われた結果、清盛の反対で後白河の行幸は中止されている。もはや後白河にとって、みずからに忠実な態度を清盛に望めなくなったことを象徴的に示す出来事である。
五月になって、高倉天皇の中宮徳子の懐妊が確認さた。六月二日に、徳子懐妊の報を受けた清盛が福原より上洛し、九月二日には十年ぶりに六波羅へはいっている。徳子が高倉の皇子を産み、その皇子が皇位を継承することとなれば、清盛は天皇の外祖父の立場を得ることになり、もはや後白河の存在をはばかる必要はなくなる・・・・そのような思惑を描いて清盛の心はおどったのではないか。
閏六月十七日には、清盛の同意を得て十七ヵ条の新制しんせい (内容は不詳) を高倉天皇が発布しており、徳子の懐妊によって清盛が、政治的提携の相手を後白河から高倉へと切り替えたことがわかる。
十一月十二日に徳子が皇子を無事出産したことを見届けた清盛は、十六日に福原に戻ったあと、二十六日に皇子立坊の沙汰にために再び上洛する。十二月十五日に立太子した皇子 (言仁ことひと 親王) が、のちにだんうら で悲劇の運命を迎える安徳あんとく 天皇である。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ