一一七四 (承安4) 年七月八日、重盛が右
大将 に任じられた。これは、天皇家の外戚となったことに一応の安堵
を得た清盛が、福原の地より朝廷の人事に介入した結果である。 また八月二十一日に行われた藤原基通の三位
中将 拝賀に先んじて、摂政家の家司である平信範が福原の清盛のもとに支持を受けに赴いており、依然として福原の清盛の権勢に揺るぎはみられなかった。 そのような清盛にとって、一一七六
(安元
2) 年七月八日に建春門院滋子が亡くなったことは大きな痛手であった。清盛の正室時子の妹で高倉天皇の生母である建春門院は、平氏一門と後白河の関係をつなぐうえで重要な役割を果たしてきた人物であり、清盛が福原に後白河を招く際にも、しばしば建春門院が同行している。 振り返るに清盛は、若年には白河上皇の寵妃祗園女御
、長じては鳥羽上皇皇后の美福門院、そして晩年には後白河の寵妃建春門院に支えられることで政治的地位を台頭させ維持してきた。二条天皇の乳母であった室時子のことなども含めて考えると、清盛は王権周辺の女性の力をもっとも有効に用いた政治家の一人であったと言うことが出来よう。 建春門院の死に関して
『愚管抄』 は、それ以後に世が乱れるようになったとする観察を記している。慈円は、朝廷政治を安定させる建春門院の存在意義を見抜いていたのである。事実、慈円の観察のごとく、建春門院の没後に、栄華をきわめる平氏に対して反発の態度を示す言動が表面化し始める。建春門院が没した翌年の一一七七
(治承 元)
年正月の除目で重盛が左 大将
、宗盛が右大将となったが、この人事に関して、大将の官を望んでいた藤原成親が強い不満を示したことはその一つである。 同時に清盛の側も、成親に代表されるような院近勢力を、平氏に対する対立勢力として強く意識していくようになっていた。その表れが、次に延べる鹿
ヶ 谷
事件における過剰なまでの清盛の対応であり、この事件の結末が清盛と後白河との連携に決定的な破局をもたらすこととなるのである。 |