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王権への奉仕者の栄光と苦悩

2012/04/25 (水) 後 白 河 近 臣 と の 軋 轢 (二)

一一七〇七月三日、法勝ほっしょう での法華ほっけ 八講はっこう に向かう藤原基房の一行が平資盛すけもり (重盛の子) の一行と出会った際、下馬げばれい をとらなかったことを咎めて基房のとも の者たちが資盛たちの車を破壊するなどの陵辱りょうじょく 行為に及んだ。いわゆる殿下でんか 乗合のりあい 事件と称される事件である。基房はただちに資盛の父重盛に謝罪したものの、重盛はおさまらず、十月二十一日になって重盛は、報復として基房の関係者を襲撃している。一見偶発的に見えるこの事件の背景に、平氏に対する基房の不満の高まりがあったことはいうまでもない。
なお 『平家物語』 には、清盛が基房に対して強い怒りを示したようすが叙述されているが、当時の貴族の日記などの史料によるかぎり、強硬な態度をとったのは清盛ではなく重盛であった。
横暴な清盛と思慮深い重盛というプロットに基づく虚構が 『平家物語』 に構えられていることは明らかだが、摂関家の人物との軋轢あつれき に端を発した破滅の道を向かう清盛たち平氏一門の末路を知る後世の人びとには、このような 『平家物語』 の虚構は受け容れやすいものであり、清盛の通俗的人物像形成につながっていったことには注意が必要である。
一一七〇年九月二十日、清盛は後白河上皇を福原に迎えて宋人そうじん に面会させ、また一一七一 (承安じょうあん 元) 年七月二十六日には、中国より渡来したひつじしゃ (鹿の一種) などを後白河・建春門陰に献上している。上皇と異国の人との会見に対する多くの人々の嫌悪をよそに、このような形で後白河を歓待したことは、積極的に外国へ目を向ける清盛らしい振舞いであるが、同時にまた後白河との関係を修復しようとする清盛の苦肉の配慮でもあった。
微妙な緊張をはらみながら、表面上は後白河と清盛の良好な関係を示す動きがその後もさらに見られ、一一七一年十一月に、福原が後白河院の所領とされている。
また十二月二日に清盛の娘徳子とくこ が後白河の猶子ゆうし となって、十四日に高倉に入内じゅだい し、翌一一七二 (承安2) 年二月十日に中宮ちゅうぐう の地位をあたえられている。同盟関係の維持のために後白河が選んだ方策は、清盛に天皇家外戚の立場を与えることだったのである。
三月十五日に清盛は福原に後白河を招いて千僧供養を始めたが、その目的は天皇家外戚の主催する法会ほうえ にふさわしく、天皇の守護と天下の安穏を祈願することであった。
なお九条鐘兼実の日記 『玉葉』 によると、六月ごろになって清盛が盛子の婿に基房を迎えるとの噂が流れている。根拠のある噂であったのかは不明だが、強引とも言うべき婚姻政策によって政治対立の芽を少しでも早く摘み取ろうとあせる清盛の姿が、噂の背景にあったと言えるかも知れない。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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