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王権への奉仕者の栄光と苦悩

2012/04/25 (水) 後 白 河 近 臣 と の 軋 轢 (一)

一一六九 (嘉応元) 年十二月に、延暦寺領美濃みの平野ひらの 荘で延暦寺根本こんぽん 中堂ちゅうどう御油寄人おんあぶらよりうどをつとめる住人と尾張国藤原家教いえのり目代もくだい とのあいだで闘乱事件が発生した。延暦寺は、この事件の責任をとって尾張国知行国主藤原成親を流罪るざい に処することを朝廷に要求した。成親は、後白河より格別の寵愛ちょうあい を受けていた近臣である。延暦寺の強硬な訴えに押されていったんは成親の備中国びっちゅうのくに 配流を決めた後白河であったが、結局この処分を撤回したために延暦寺の備衆徒しゅうと たちは激怒し、強訴の構えをみせた。やむなく後白河は、平氏一門の軍事力で山門に対処することにした。
この事態によってきわめて複雑な立場に追い込まれたのが清盛である。成親は重盛の女婿にあたり、清盛とは縁ある人物である。もちろん、後白河の命令を無視するわけにはいかないが、山門の勢力と事を構えることの困難さも清盛は痛いほど理解していた。
福原にいる清盛は、明くる一一七〇 (嘉応2) 年正月十三日に頼盛を、ついで十四日に重盛を呼び寄せ、この騒動に関する報告を受け、十七日に福原を離れて上洛している。
清盛のはいった六波羅周辺に多くの武士が集まったことで、朝廷と山門の関係は一触即発の様相を呈したが、清盛の示した姿勢は延暦寺を支持するというものであった。ふたたび成親の処罰に関する審議が進められ、結局は解官処分ということにおさまったが、白河にとっての清盛の態度は裏切りに等しいものであったろう。
二月に入り、天台座主明雲の毅然とした態度表明によって延暦寺衆徒の動きは沈静化し、騒動は一応の決着をみたが、この間の一連の動きは、平氏一門を指揮する主体が後白河ではなく福原にいる清盛であるという現実を鮮明にし、清盛の陰然たる権力の大きさを改めて示し、同時にそれは、後白河と清盛の間に大きな溝をつくりだすきっかけともなったのである。
四月二十日に後白河が東大寺とうだいじ行幸ぎょうこう した際、清盛も同行して二人はともに受戒じゅかい している。この受戒そのものは一一四二 (康治元) 年の東大寺における鳥羽とば 上皇・摂政藤原忠実ただざね の同時受戒の先例にならっており、清盛の地位が摂関家のそれに匹敵するものであったことを反映しているが、白河の行動としてみるならば、前年からの騒動の顛末に不満を持ったことによる延暦寺に対するあてつけと見ることも出来よう。そのことに思いの至らぬ清盛ではなかったろうが、従順に後白河と行動をともにするところに、あいかわらず協調を宗とする清盛の政治姿勢があらわれている。
一方で清盛は、女婿であり摂関家の後継者の地位を保証された基通の後見こうけん に余念がなく、四月二十二日の基通元服の儀に藤原那綱をつかわして沙汰をさせ、閏四月四日に行われた基通の元服拝賀はいが の儀にも援助の手を差し伸べている。
このような清盛の動きに対して、摂関家の 「中継ぎの家長」 としての地位に甘んずることを余儀なくされた摂政藤原元房は不満をつのらせ、平氏に対する反感は高まるばかりであった。そのような状況を背景とする一つの事件が起きる。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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