嫡子重盛への家長継承の道筋を整えながら、清盛の朝廷政治への関わりがしばらくは続くと思われた矢先の一一六八
(仁安3) 年二月、清盛は病魔に襲われてしまう。 清盛の病は 「寸白
」 (寄生虫による疾病) とされている。当然ながら、清盛の病の報は朝廷内に大きな動揺を走らせ、九条
兼実 はその日記
( 『玉葉 』 )
に 「天下大事」 との記述を残している。 多くの人が六
波羅 の清盛の病気見舞いに訪れるなか、奇しくも太政大臣就任のちょうど一年後に当たる二月十一日に、清盛は出家して法名清蓮
を名乗った (のちに静海
) 。導師
をつとめたのは天台
座主 の明雲
であり、これ以後、清盛と山門
の親密な関係が始まっていく。なお、清盛正室の時子も同時に出家 (二位尼) をとげている。 このとき、清盛周辺の人びとおよび清盛自身は最悪の事態を覚悟したに違いない。二月十五日に、清盛危篤の報を受けた後白河上皇は六波羅を訪れ、病床の清盛との直接協議によって東宮憲仁の践祚
を決定した。これは、万一に備えて、後白河と清盛がともに意中とする人物の皇位継承を確たる事実とするための緊急な対応である。二月十九日に六条は憲仁に譲位し
(高倉天皇) 、元服
以前に上皇となった。六条は歴史上に時にあらわれる 「中継ぎの天皇」 の典型といえる。 清盛の病状はなかなか快方に向かわなかったが、一一六八年六月から七月にかけて蔵人頭
藤原信範を通じた後白河と清盛のあいだの実務連絡がみられることから、このころまでには清盛は健康を回復させたものとみられる。しかし、いったんは死を覚悟せざるを得ないような重病の経験は、清盛に政治の一線から身を引くことを決意させたようである。 翌嘉応
元 (一一六九) 年正月一日条の 『兵範記
』 の記事は、清盛の六波羅居住を示す最後の史料であり、また福原
に白河を迎えて 千僧
供養 を行ったことを記す
『兵範記』 同年三月二十日条裏書
および三月二十一日の記事が清盛の福原居住の初見であることから、清盛の六波羅退去すなわち隠遁が、この年の春ごろになされたことが推測できる。 福原は摂津
国八部 郡の地名で、一一六二
(応保2) 年に清盛が家人藤原能盛を派遣して、摂津国八部郡の一郡検注
を実施して福原荘を立てたことから平氏との関わりが始まった。 その後、清盛は周辺の土地の集積を積極的に進めて、福原の拠点を拡大していった。とくに福原付近に良港の
大輪田泊があったことは、瀬戸内海海運の掌握につとめる清盛には重要な意味を持つものであった。 以後、清盛は福原を
「隠遁」 の地とするのだが、あとにみるように、清盛は福原の地に居ながら引き続き政治力を行使していくことになる。なお、清盛の嫡子重盛の六波羅居住を示す最初の史料が
『兵範記』 の応保二年十一月二十五日条にみえ、家督
の交替とともに六波羅の住人が入れ代ったことも確認することが出来る。 清盛が重盛に家督を譲った背景としては、重病にかかったこととは別に、一門内での 頼盛
の存在を指摘することが出来る。前述したように、家盛
や頼盛のような正室腹の忠盛
の子たちは、清盛に対抗しうる立場を有していた。 忠盛が伊勢守時代に入手した宝剣である抜丸
が、清盛ではなく頼盛に伝えられて二人は不和になったとする 『源平
盛衰 記
』 の記事は、そのような両者の関係を象徴するものといえよう。 強大な軍事力をもつ頼盛が独自の行動をとることで、世代交代後の平氏一門の結集に乱れが生じることへの清盛の懸念も、重盛への家督継承を急がせる理由となったろう。 そのような清盛の思惑を端的に示したのが、一一六八年十一月二十八日に起きた参議頼盛と彼の長子である尾張
守保盛 の官職罷免という出来事である。罷免の直接の原因は、五節における保盛の受領
としての職務怠慢に対して後白河が激怒したことであった。 後白河に対して清盛は善処を約したものの、結局解官の処分をまぬがれる事は出来ず、十二月十三日の除目では頼盛の家人六人も解官されている。 清盛は最終的には後白河の命に従い、頼盛に対する後白河の断固たる措置を支持した。以後、頼盛は清盛の統制下にはいることとなったが、この事件は結果的に家督を継承したばかりの重盛の立場を安定させるものとなった。 |