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王権への奉仕者の栄光と苦悩

2012/04/24 (火) 清 盛 と 平 氏 の 栄 華

一一六六 (仁安元) 年十一月十一日に清盛は内大臣ないだいじん となった。いんの 近臣者きんしんしゃ の大臣昇進および武士身分の大臣昇進という二つの意味で空前の人事である。
一族の地位も連動して上昇し、十一月十三日に清盛の四男である知盛とももり が武蔵守となり、十二月二日に憲仁親王の東宮大夫に清盛の嫡子重盛が任じられている。武蔵国は清盛の知行国となっていたと推定され、また東宮大夫の前任も清盛であり、清盛の権力を一門が継承する体制の成立状況を見ることが出来る。
そして一一六七 (仁安2) 年二月十一日、清盛は じゅう いち 太政だじょう 大臣だいじん に昇進するとともに、随身ずいじん 兵仗へいじょう輦車れんしゃの 宣旨せんじ を受け、まさに 「くらい 人臣じんしん をきわめる」 こととなった。
二月二十五日に清盛は厳島社いつくしましゃ を参詣しているが、太政大臣任官にんかん を報告することがその目的であったのだろう。ちなみに清盛たち平氏一門は一一六四 (長寛2) 年以降、一門の繁栄を願って経巻きょうかん を厳島社に奉納するようになっており、このときも奉納がなされている。工芸技法を凝らした華麗な装飾がなされ、現在 「平家納経」 として国宝に指定されているそれらの経巻は、平氏の財力の大きさと厳島への信仰の厚さを現代に伝えている。
それまでの官職の沿革に照らすと、令制りょうせい の定める最高位の官である太政大臣への任官には、実権を伴わない名誉職の付与としての性格が強かったが、こと清盛に関して言えば、かなり事情は異なるといえよう。すなわち、多くの官職を占めることが予想される清盛一門にふさわしい高い家格が与えられたものとして、単なる権威ではなく、政治的権限に相応する実質的な意味を持ったものとみることが出来るのではないか。
五月十日に清盛の嫡子である大納言重盛に東海道とうかいどう東山道とうさんどう山陽さんよう 道・南海なんかい 道の盗賊追捕ついぶ の権限が与えられているが、この権限は清盛の有した公的な軍事権限を表現したものであり、清盛の立場の子孫への継承が公式に認められたことを意味する。
そのような権力世襲の時期を選んで、清盛の太政大臣就任が実現したのだろう。清盛が太政大臣に任官したことで 「一天いつてん 四海しかい 」 を掌握し天下をとったとする 『平家物語』 の記述は、単なる誇張ではなく、それなりの事実を言い当てたものと評価することが出来よう。
五月十七日に清盛は太政大臣を辞したが、十二月二十三日には、除目・叙位じょい僧事そうじ について後白河から意見を求められており、引き続き後白河の院政の意思決定に参与している。
また清盛は、公卿議定ぎじょう における時忠の発言を通して、後白河の意思決定に自らの主張を反映していた。そのような清盛の権限は、娘盛子の摂関家との婚姻関係によって清盛が摂関家の 「大殿おおとの 」 と同様の立場を得ていたと理解されることで、同時代人には一応の了解を得られるものだったのではないだろうか。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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