ところで前述したように、後白河が清盛に期待した事柄には、軍事力のほかに経済力があった。古くより経済面で院政を支える桓武平氏の動きはみられたが、御
願 寺
の造営などの事業を進める後白河に奉仕するために、清盛にはとくに強大な経済力が求められた。 「平氏の栄華」 を示す際に必ず言及される大規模な荘園
と知行国の集積の背景に、このような事情があったことは無視できない。 そのような状況において清盛の目が向けられたのが、摂関家とその経済力であった。清盛は娘の盛子を基実の室
としており、さらに基実の子基通の室にも娘の寛子
をいれることで、平氏は摂関家との姻戚
関係を強めていた。基実の没したあとに後白河の院政が復活したことで、摂関家の政治力はやや弱まっていたが、莫大な規模の荘園と知行国を保有する摂関家の経済力は変わることなく磐石
であった。清盛は、摂関家の立場が弱まった機を利して、その経済力を平氏一門が実質的に掌握することを意図したのである。 このような方策を清盛に提言したのは、藤原忠通の家司であった藤原那綱
である。那綱は次のように清盛に説く。基実の弟である基房による摂関家領の伝領には疑問があり、基実の嫡子である基通が継承することが正当であるのだから、基通が成長するまでの間は基実の後家
盛子が継承し管理すべきであると。 この提言は、盛子の父である清盛に摂関家の実質的な支配権が与えられることを意味し、それは現実のものとなる。一一六六年九月二十七日、清盛は家人
の藤原能盛 を通じて、摂関家の家司である平信範
に摂関家領三河 国志貴荘
下条 の知行を指示し、信範をおおいに喜ばせているが、能盛は盛子の政所別当でもあり、盛子の摂関機関を介した清盛による摂関家領の差配が実現していることが分かる。 この時代における先代の家長
の正室がもつ家政支配権限は、きわめて大きなものだった。その点に着目した那綱のアドバイスは清盛にとって実に貴重なものとなり、平氏の経済力はさらに肥大化していくのである。
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