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王権への奉仕者の栄光と苦悩

2012/04/23 (月) 摂 関 家 と 清 盛 (一)

一一六五 (永万えいまん 元) 年六月にわずか二歳の六条ろくじょう 天皇に譲位し、上皇となっていた二条が七月二十八日に没した。
八月七日の蓮台れんだい における二条の葬儀で、墓所の四方の門にかける寺の額の序列をめぐって延暦寺えんりゃくじ興福寺こうふくじ の間で騒動が起こる。興福寺の僧が延暦寺の額を切って落とす挙にでたため、延暦寺は報復として興福寺の末寺まつじ である清水寺きよみずでら を焼き払うという事態に発展してしまった。 『平家物語』 巻一 「額打がくうち 論」 に詳しい顛末が語られており、延暦寺の行動は後白河による平家追討のためのものとするうわさ が立ち、後白河自身が当惑したという話がみえる。
前章で述べたように、すでに若き日の清盛が延暦寺強訴ごうそ という問題への対処の困難さを体験していたが、この時の出来事もまた、延暦寺対策が後白河との対立の契機となることを清盛に知らしめるものであったろう。事実、のちの清盛と後白河の政治的決裂には、直接に延暦寺がかかわることになるのである。
一一六五年八月十七日に、清盛はごんの 大納言だいなごん となった。この人事は、幼い六条天皇にかわって執政する婿の基実の立場を支えるためのものと考えられる。ところが、その肝心の基実は、明くる一一六六 (仁安にんあん 元) 年七月二十六日に赤痢せきり で没してしまった。清盛は、二条に続いて政治的後ろ盾を失ってしまったのである。 「愚管抄」 (巻五) には基実を失って嘆き悲しむ清盛のようすが描かれている。
基実の子の基通もとみち はまだ幼かったため、後白河の院政が復活し、七月二十七日に基実の弟である基房もとふさ が六条天皇の摂政せっしょう となった。
このような状況のなか、清盛の力を得ることで政権が安定することを過去の経験から十分に理解していた後白河は、平氏一門と深い縁を持つ憲仁親王 (高倉) を皇位につけることで、清盛との政治的提携を再び確立する道を選んだ。
すでにふれたように、平時忠と平教盛が憲仁の皇位継承を試み挫折したことがあったが、二条天皇が亡くなった時点で、清盛にとっても憲仁親王の皇位継承に反対する理由はなかった。
すでに前年の一一六五年十二月二十五日に憲仁は親王宣下せんげ を受け、清盛は親王家のちょく 別当べっとう となっていたが、六六年十月十日の憲仁親王立太子後は、清盛は東宮とうぐう 大夫だいぶ となった。また東宮房の職員に平氏一門の多くがはいり、重盛しげもり の妻である大納言典侍 (藤原成親なりちか の妹) が乳母となった。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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