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王権への奉仕者の栄光と苦悩

2012/04/23 (月) 後白河と二条に奉仕する清盛 (二)

少し時間は前後するが、一一六一年正月二十三日に清盛は検非違使別当となり、朝廷の主要な警察力を掌握していた。ちなみに前任の別当は前年解官された惟方である。一一六二 (応保2) 年正月九日に清盛は、右衛門督・検非違使別当を辞す意志を二条天皇に示し、閏二月九日にその願いが斥けられているが、二条の政治を支えている清盛の両職の辞意は本音でなかったとみるべきだろう。
清盛の朝廷政務への関与も引き続きみられ、三月七日に藤原経宗の配流地からの召還について、蔵人藤原藤原重方が二条の仰せを後白河・清盛・藤原忠通の順で伝えている。軍事警察の問題だけでなく、朝廷政治一般の分野で大きな存在感を示すようになった清盛は、九月十三日に権中納言に昇進している。
一一六二年三月二十八日に二条天皇の里内裏である押小路東洞院邸の新造がなると、清盛一門はその警護の任に就いている。この内裏警護に関しては、のちの大番役の起源とする理解と、これを否定して二条と後白河の政治対立が存在する特殊状況下における異例の武力警護とする見解が存在する。直接的契機の説明については後者の理解が妥当であるが、非常時の警戒態勢が恒常的な警備体制に移行して行くという流れとして、このときの措置を内裏大番役 (ひいては鎌倉幕府の京都大番役) という制度の起点におく理解も成り立つと考えたい。
これらのような二条への清盛の奉仕に関して 『愚管抄』 は、後白河の世となることに清盛が警戒したからであるという解説を加えているが、後白河と清盛の対立軸からのみ政治情勢を説こうとする慈円の理解は、のちの歴史の推移に影響された狭小なものといえよう。
清盛は、一一六二年四月十一日に関白藤原基実とともに後白河より除目に関して諮問を受けていたり、十二月には、備前国の知行国主として得た財力によって後白河のために蓮華王院を造営したりしているように、後白河への奉仕を怠っていたのでは決してなかった。
父同様に譲位後に院政を進めようとしていた二条天皇が、清盛たち平氏一門の軍事力と政治力に依拠する姿勢を見せ、王権の守護の役目を担う清盛がそのような二条の期待に応える行動を取ったことは当然と言うべきであり、この時点で後白河と清盛の政治対立を強調することは、少なくとも清盛の政治姿勢に関する理解としては史実に合致しない。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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