一一五九 (平治元) 年十二月四日、清盛は熊野参詣のために都をあとにした。 これを好機として、九日に藤原信頼の命を受けた源義朝の軍勢が、後白河上皇の御所
である三条殿を襲撃し、後白河と上西
門院 を連れ去って内裏の中の一本
御書 所
に幽閉したのである。信頼の目的は、二条天皇の側近である経宗・惟方と提携して、信西を打倒することであった。完全に孤立した信西は、宇治
田原 に逃れたあと、前途を悲観して自害して果てる。土中に埋められた信西の遺体は義朝の武士によって掘り出され、その首は京の獄門
にさらされている。 信西は子の成範
を清盛の女婿としていたが、この事件の前後の状況を見るかぎり、信西が清盛を頼った形跡はうかがえない。信西にとって、政敵に対抗するために清盛の軍事力に依存することも可能であったはずだが、清盛と行動を共にする姿勢を見せぬまま、文字通り孤立無援の状態で滅び去ったのである。 熊野に向かうきよもりは、十二月十七日に紀伊
国田辺 宿 (一説に
切部 宿)
で京の異変の報に接した。わずか十五騎ばかりの手勢しか持たない清盛は、都の治安を維持する役割を果たすことに不安を感じ、初め九州あるいは四国に逃れて体勢を立て直そうと考えていた。古くは清盛の行動に関して、信頼と義朝の行動を誘うために、わざと少数で京を離れたという理解も存在したが、清盛の周章
狼狽 ぶりは事実と思われ、そのような理解は成り立たないと判断される。 清盛の立場は、基本的に信西と信頼の政治対立とは無縁であったといえよう。 それはともあれ、朝廷の守護者たるべき自分の留守中に京で戦乱が起きたことに清盛は大きな衝撃を覚えたはずである。焦燥感をつのらせる清盛に救いの手を差し伸べたのは、三十七騎の手勢を同道してきた湯浅
宗重 および甲冑
七領を清盛に進上した熊野別当湛快
といった紀伊国の有力者であった。このあと、宗重は清盛の郎党として活躍し、熊野別当湛快も平氏との結び付きを強めていく。さらに紀伊国の住人が加勢のために入京したとの報を受けた清盛は、ふるって京へ戻ることとなった。 京に入った清盛がまず取った行動は、政争の当面の勝者となった信頼に従順な立場を表明したことであった。清盛は、信頼へ敵対する意志がないことを示すために、家貞を使者に立てて信に名簿を提出し、十二月十八日には、信頼の子である信親
に家人を護衛につけて父のもとに送り届けている。ちなみに 『古事
談 』 巻四には、このときに護衛の役をつとめた難波
経房 ・館
貞安 ・平盛信
・伊藤景綱の様子を見た義朝が、その 「一人当千」
ぶりに感服し、とても敵対できる相手ではないとの感慨を抱いたという話がみえている。 清盛が信頼へ従順な態度をとったことは、結果的に信頼・義朝方の油断を誘い、彼らの敗北の要因となった、みごとな策略であったという評価が可能である。だだし、二条と後白河を
「人質」 にとられた段階でのやむを得ない行動であったのかも知れず、あるいは清盛の信頼への忠誠は、実質的には二条天皇に対して示されたものだったのかも知れない。 清盛が態勢を立て直して六波羅に入ると、信頼が擁する二条天皇の側近に狼狽の動きが見られ始めた。清盛はその機を逃さず、藤原経宗・藤原惟方と提携して、天皇を六波羅に行幸
させることに成功する。また、後白河上皇までもが幽閉を逃れて仁
和寺 に移ったため、信頼・義朝はみずからの政権の正当性を保証する旗印を失い、完全に孤立してしまった。内裏に残された信頼・義朝は、追討宣旨を受けた清盛の攻撃を受け、義朝の長男である義平
の奮戦によって一時的に清盛の撃退に成功はしたものの、援軍として期待していた源頼政
は兵を動かさなかったため、結局は六条
河原 の戦いで破れてしまう。 ところで、
『平家物語』 の流布本には、この時の合戦で臆病になった清盛が兜
を前後さかさまにつけたという逸話がみえる。しかし古態本である学習院大学所蔵本 (九条家
旧蔵本) には、そのような清盛の逸話はみえていない。 すなわち 『平治物語』 の諸本の形成過程のなかで、合戦の場の清盛を不名誉な形で描く叙述が加えられていったのである。清盛の華々しい戦いぶりが
『保元物語』 にみえないことも前述したが、そもそも軍記物語の生成と展開の過程には、清盛の存在を矮小化
させようとする方向性があったことが指摘できるのであり、清盛の実像を知るために軍記物語を用いる際には、特別な注意が必要である。ちなみに、より実録性の強い 『愚管抄』
には、このときの合戦に臨む清盛の雄姿が描かれており、軍記物語の叙述の作為性との対比を確認することが出来る。 |