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武 家 棟 梁 と し て の 活 躍

2012/04/22 (日) 清 盛 の 栄 達

このいわゆる平治の乱の結果、信頼は斬首され、東国を目指して逃亡した義朝は尾張国野間のま長田おさだ 忠致ただむね (義朝の家人である鎌田かまた 正清まさきよしゅうと ) の裏切りにあい殺害される。義朝の三男である頼朝よりとも が、藤原宗子 (池禅尼) の助命嘆願によって一命を救われ、伊豆いず へ流されたことはよく知られた話であろう。宗子が助命を願った理由は、早生した実子家盛の容貌が頼朝のそれに似ていたからとされるが、それが事実ならば、清盛には父の正室とその実子をはばかる思いが強かったと言えるのではないだろか。
平治の乱は、源氏と平氏のあいだで戦われた合戦であり、その意味でこの合戦にのちの治承じしょう寿永じゅえい の合戦のイメージをだぶらせ、清盛と義朝の確執を乱の背景ととらえる通俗的理解がある。だが、前述したように、平治の乱の状況を詳細に見れば、清盛は乱前夜の政治抗争とはほとんど無関係であったと言わねばならず、したがって清盛と義朝の間に対立意関係を見出すことは困難である。とはいえ、平治の乱の顛末が、頼朝たち源氏武士に清盛への復讐の念をもたらし、二十年余りあとの 「源平合戦」 の背景となったのは事実である。
十二月二十九日、二条天皇は六波羅の清盛邸から養母美福門院の八条はちじょう 邸に移り、清盛もこれに供奉した。またこの日、平治の乱の論功行賞としての 除目じもく で清盛一門の者たちが多く受領に任官した。これは清盛の持つ知行国の増加を反映しており、平氏の経済力はより大きなものとなった。
明くる一一六〇 (永暦元) 年になっても、引き続き平治の乱の余韻ともいうべき事態は続いた。
二月二十日に、清盛の郎党ろうとう 忠景ただかげ為長ためなが が二条天皇の有力な側近である藤原経宗・藤原惟方を捕らえ、内裏の陣頭に行幸した後白河の車の前で体罰を加えたうえで、二十八日に解官げかん したのち、配流の処分を下したのである。
この出来事の直接の要因は、経宗・惟方が八条堀河ほりかわ 藤原顕長あきなが 邸にいる後白河の桟敷さじき を材木で封鎖するという行為におよんだため、後白河が泣いて清盛に二人の処罰を訴えたことであるが、経宗・惟方の二人は、最終的に平治の乱の責任をこのような形でとらされたと考えられる。後白河は、清盛の力を借りて平治の乱のけじめをつけたと言うことが出来よう。
ちなみにこの時、惟方の有した武蔵国知行国主の地位は清盛に移り、平氏にとって重要な東国支配の足がかりが得られることとなった。
さらに六月には、二条天皇の側近である美濃源氏の光保みつやす光宗みつむね が謀反の疑いをかけられて薩摩さつま に流され、平氏の軍事面でのライバルが朝廷より一掃された。
以上の出来事は、後白河方による二条勢力を一掃する動きと理解できるだろう。
六月二十日、二条天皇を六波羅に行幸させたことを 「 こと なる功」 (特別な功績) として賞され、清盛は越階おつかい して正三位となり、武士としてはじめて公卿の座に列し、さらに八月十一日には参議さんぎ 、九月二日には右衛うえ 門督もんのかみ に任じられている。
いうまでもなく、平治の乱での清盛の働きにむくいた恩賞であるが、二条天皇に近い勢力に打撃をあたえたあとの清盛の破格の昇進ぶりには、清盛を厚く信頼する後白河の意志がとくに反映したと見ることも出来よう。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ