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武 家 棟 梁 と し て の 活 躍

2012/04/22 (日) 保元の乱後の政治情勢と清盛

戦功によって武士としては破格の地位をともに得た清盛と義朝であったが、同時に彼らは一族の武士を失う悲哀を味わうことともなった。保元の乱は、同じ一族に属する武士が敵味方に分かれた合戦であったために、清盛と義朝は一族の者を謀反人として処罰せねばならなかったのである。だだい、義朝が父為義など多くの源氏一族の命を奪い、あるいは配流はいる させたのに対し、清盛は叔父忠正を斬罪に処したのみで乱を乗り切ることが出来た。忠正は長く藤原頼長に仕えており、子の長盛ながもり が崇徳の蔵人くろうど であったために、保元の乱では清盛に敵対する側にまわっていた。結果的に一門の団結をほぼ維持しながら合戦に臨むことが出来た結果、義朝の源氏武士団に比して、清盛たち平氏武士団の痛手は小さい規模にとどまったのであった。
後白河は、保元の乱後に親政をしいたあと、一一五八 (保元3) 年の二条天皇への譲位後は院政を開始し、荘園整理令を含む新制しんせい 発布・記録荘園券契所の設置・だい 内裏だいり 再興・神人や悪僧に対する統制といった政策を積極的に展開した。
後白河が政治を進めるうえでは、信西が大きな役割を果たしている。信西は俗名を藤原通憲みちのり といい、藤原氏南家の流れをくむ学問の家に生まれた人物である。彼は当代を代表する優秀な学者で、初め鳥羽上皇に仕え、後白河の即位後は、妻の藤原朝子あさこ (紀伊きいの 二位にい ) が後白河の乳母であった関係から破格の重用をされ、この時期の後白河の政治の実相に対しては 「信西政権」 という評価も存在するほどである。
保元の乱後の清盛もまた、後白河の政治を支える役割を果たしている。一一五八年八月五日に清盛の次男である基盛が大和守となり、父の清盛は知行国主の地位を得たが、摂関家の定めを破って興福寺の寺僧領にも強硬な姿勢で臨み、大和国の国検こつけん (一国規模の土地検注けんちゅう ) を遂行している。国検そのものは、七月の興福寺大衆の蜂起によって下向げこう した官使が京に逃げ帰るという結果を招き最終的に頓挫するのであるが、このときの清盛の動きは、後白河上皇の進める荘園整理政策に基づくものであった。
一一五八年八月十一日に上皇となった後白河の最初の院司いんし 補任では、清盛は院庁別当に任命され、以後、後白河の院政を支えていくこととなる。
なお、同年八月十日に清盛は太宰だざいの 大弐だいに となり、大宰府の実質的な長官の地位を得て、目代もくだい として家人の藤原能盛よしもり を派遣している。これは平氏の滅亡の時点まで続く平氏一門と西海道さいかいどう の深い関わりの始まりにもあたるものである。
後白河の厚い信任を背景に盤石の権力基盤を手にしたかに見えた信西だったが、まもなく彼の立場を危うくするライバルが出現することとなる。そのライバルとは、藤原信頼のぶより である。信頼は鳥羽上皇近臣きんしん であった忠隆ただたか の子で、父同様に鳥羽の近臣として受領を歴任した後、男色だんしょく 関係を通じて後白河より受けた寵愛による破格の昇進を遂げ、一一五八年には権中納言にまでのぼりつめた人物である。行政の才に富む信西に対し、信頼はまったくの凡庸ぼんよう な人物であったらしく、信西は信頼の排除を後白河に諌言したものの容れられず、後白河が信頼を重用する一方で、後白河の信西に対する信任の度合いは弱まっていった。また信頼は源義朝にも接近し、その軍事力を取り込むことをはかっていった。
同じころ、後白河より皇位を継承した二条天皇周辺の勢力、具体的には藤原経宗つねむね ・藤原惟方これかた といった人物たちの勢力も台頭していた。関白藤原基実もとざね の補佐を得た二条天皇は、即位当初より政治に意欲を見せ、ともすれば父後白河の存在を差しおきかねない姿勢を見せており、そのような二条の側近が力を伸ばすこともまた、後白河の院政を自己の権力の正統性の源とする信西の立場を脅かすものであった。
しだいに孤立の度を深める信西は、朝廷政治の実権を掌握してわずか三年余りの後に、ついに反対勢力の挙兵という事態に直面することになる。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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