ところで、 『保元物語』 の描く合戦の場面での義朝の姿は、まことに活力にあふれ勇ましい。合戦を前にした義朝は、皇位継承にかかわる戦いに参加し、武士としての名声をあげる場面に出会えたことをおおいに喜び、
「天皇の命令を受けて朝敵
を討ち、恩賞を受けることは家の面目である。今こそ武芸を発揮して命を捨て、後世に名を残して恩賞を子孫に伝えるのだ」 と言い放ったときされている。父為義との関係が必ずしも良好ではない義朝は、河内源氏流武士団の中心人物として後白河の陣営に参加することに格別に奮い立っており、ためらうことなく夜襲に打って出ることが出来たのであろう。
『保元物語』 中 「白河殿メ落ス事」 には、そのような義朝の奮戦ぶりがあますところなく詳細に描かれている。 これに比べて 『保元物語』 の描く清盛の姿は、かなり精彩を欠く。義朝が賀茂川の河原で崇徳方の源頼賢
の軍勢と衝突している間に、南側からまわった清盛は源為朝
と鉢合わせし、伊藤景綱
の子である伊藤六 や山田
是行 といった清盛の家人たちが為朝の放つ矢によって討たれ、清盛の軍勢はやむなく後退している。また
『愚管抄』 における保元の乱の叙述においても、もっぱら義朝の動きのみが記されている。 以上のような関連史料の叙述から、清盛がこの時の合戦で重要な働きをしなかったかのように見る向きもあるが、そのような理解は疑問である。
『保元物語』 の叙述は義朝や為朝などの源氏の武将の奮戦ぶりに焦点を当てたものであり、そもそも清盛の行動はあまり注目されていない。清盛の戦いの 「ふがいなさ」
も、為朝の武威をきわだたせるものとして協調されたのだといえよう。平氏武士団の嫡流としての地位を安定的に保持した清盛の軍事行動は、功を焦る義朝の奮戦ぶりとは異なる
「堅実」 なものだったはずであり、軍記物語の叙述対象としてクローズアップされなかったのだろう 乱後、清盛は勲功賞として播磨守
に任官しているが、武家棟梁として 「朝敵」 を打倒する責務を全うしたが故の結果である。崇徳に味方する可能性も高かった清盛の参陣によって後白河の勝利は保証だれたと言えるのであり、後白河がしかるべき恩賞で清盛に酬いるのは当然であった。なお、七月十七日には、清盛の推挙によって清盛の異母弟である頼盛・教盛の昇殿が許されている。 一方、源義朝は恩賞として左
馬頭 の官を与えられた。このときの義朝が清盛との恩賞の差に不満を持ち、それがのちの平治の乱の伏線となったとされているが、それ以前の両者の官歴を比較するならば、客観的には妥当な恩賞であったと評価出来るだろう。 |