七月六日に平基盛が、大和
国の武士で頼長の家人となっていた源
親治 を京の東にある法住寺
付近で捕らえ、七月八日には、代々の摂関家家長に伝領されてきた東
三条殿 が没官
され、藤原忠実・頼長父子の諸国荘園
からの軍兵動員を禁じる後白河天皇の綸旨
が諸国にだされた。このような形で後白河天皇に追い詰められた崇徳と頼長は、情勢を一転させるため合戦を覚悟せざるを得なくなり、源為義
・平忠正 といった武士を召して白河北殿にはいった。一方、後白河方の清盛および藤原忠通・源義朝
。信西 らは高松殿
にはいった。義朝は、清和
源氏流の武士である為義の長子で、長く東国で活動していたが、前年より京を生活の拠点とするよぷになっていた。清盛が動員した軍勢が、一門の武士のほか伊賀・伊勢・河内
・備前 ・備中
といった平氏が本拠とする地域の武士からなっていたのに対し、義朝の軍勢は、彼の東国での活動実績を反映して近江
・美濃 ・尾張
・三河 ・遠江
・駿河 ・相模
・安房 ・上総
・武蔵 ・上野
・下野 ・常陸
・甲斐 ・信濃
といった東山道
・東海道 の武士からなっていた。 七月十日の夜半になって、義朝は崇徳上皇の白河殿への先制攻撃を主張した。後白河天皇たちはしばらく夜襲の決行をためらっていたものの、藤原忠通の決断によって攻撃命令が発せられ、合戦の火ぶたが切られたことになる。 『平範記
』 によれば、白河北殿の攻撃に向かった軍勢は、二条
大路 をいく平清盛の三百騎、大炊
御門 大路をいく源義朝の二百騎、そして近衛大路をいく源義康
の百騎であった。義朝が白河北殿正面の攻撃を担当するのに対し、清盛は白河北殿の南側を攻撃する形となる進軍である。軍勢の規模で劣勢に立つ崇徳上皇たちは南都
の軍勢を味方につけて合戦に臨もうとしており、それに備えて清盛には南からの軍勢の合流を防ぐ与えられていたのかも知れない。なお、 『保元物語』 には清盛の軍勢は六百騎とされており、軍記物語にありがちな数字の誇張ともとれるが、清盛一門の軍勢を加えた数字として理解することも可能だろう。 白河北殿での戦闘は十一日の正午ごろまでに決着がつき、合戦は後白河方の勝利に終わった。保元の乱と称されるこの戦いのあと、崇徳上皇は讃岐
に流され、戦のなかで傷を負った藤原頼長は命を落とし、藤原忠実は隠遁
を余儀なくされた。 |