〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜
武 家 棟 梁 と し て の 活 躍

2012/04/22 (日) 皇位継承をめぐる政争のなかで (二)

一方同じころ、摂関家内部でも家長権の継承をめぐる争いがおき、関白かんぱく 忠通ただみち と、父忠実ただざね ・弟頼長よりなが のあいだに対立が生じていた。
一一五六年七月に鳥羽が没すると、以上のような朝廷の中枢に位置する人びとの対立が一挙に表面化することになった。武士団が確固たる地位を占め、天皇家や摂関家などの人びとに多くの武士が臣従していたこの時代、朝廷社会の権力闘争は必然的に武士団を巻き込む結果となり、最大の武力を有した清盛たち平氏武士団の去就は、鳥羽没後の緊張状態のもとで、当然ながらおおいに注目されることとなった。
もちろん清盛たち平氏一門にとって、王権を脅かし朝廷の安定を損なう勢力の討伐こそが自分たちの責務であることは明白であった。しかし、王権あるいは朝廷の権力そのものが分裂状態に陥ったとき、平氏のとるべき道はにわかに定まらず、その去就は微妙な人間関係の絡む政治情勢によって決せられざるを得なかったのである。
後白河と崇徳の対立の構図において、当初平氏の立場は、崇徳方に近いものであった。あるいは、より慎重な言い方をすれば、少なくともそのように人々に認識されていた。忠盛の正室である宗子が崇徳の皇子である重仁親王の乳母であったことが、その最たる要因であり、鳥羽上皇の葬儀の入棺役に平氏一門が加えられなかったことも、そのような事情による平氏への警戒心の表われであった。最大の軍事力を有する清盛たち平氏一門を後白河・崇徳いずれの陣営が味方につけるかは、軍事衝突の際の勝敗を決するものであった。もし清盛たちが崇徳方についたならば、この直後の起こる保元の乱の結果はまったく異なったものとなり、日本の歴史の流れも大きく変わっただろう。
清盛の行動に大きな影響を与え、情勢の帰趨を決したのは、二人の女性の言動であった。 『保元物語』 によると、鳥羽が生前に指示した内裏だいり を警固する武士の名簿に清盛の名がなかったにもかかわらず、美福門院が鳥羽の遺言であるとして清盛を召したという。この措置がなかったならば、孤立した清盛が後白河に敵対する動機を持つようになったかも知れない。
また 『愚管抄ぐかんしょう 』 によると、崇徳上皇と深い縁を持つ宗子が実子の頼盛に対して、合戦になったならば崇徳は必ず負けると説き、兄清盛に味方するように説得したという。前述したように正室腹の頼盛は、一門内で清盛に肩を並べることの出来る存在であったが、その頼盛が縁故関係を理由に崇徳方についたならば、一門の分裂を恐れる清盛は、崇徳に敵対する行動を躊躇したかも知れない。
京が一触即発の緊張状態におかれていた七月五日、崇徳上皇・藤原頼長に対する警戒のために、後白河が京中の武士の行動の取締りを検非違使に命じた際、命令を受けた者の中に清盛の次男である基盛もともり の名があったことは、この時点までに清盛が後白河方についたことを意味する。後白河天皇は清盛を取り込むことに成功し、清盛と後白河のあいだの紆余うよ 曲折きょくせつ に富んだ関係の歴史の第一歩が始まることになったのである。               

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
Next