平氏武士団の棟梁となって三年後、清盛は大規模な政治闘争の渦に巻き込まれることになった。 古くより朝廷社会では、皇位継承をめぐって流血を伴う苛烈な争いが何度も繰り返されて来た。だが、摂関政治期には天皇の母系の藤原氏が、さらに後
三条 天皇親政
期・白河院政期以降は天皇家の家長が、それぞれ皇位継承権を一元的に掌握したことによって政治は安定し、合戦
におよぶ激烈な政治抗争は久しく起きることがなかった。清盛の時代までには、天皇家および摂関家を頂点とする貴族の家、そして平氏・源氏の武家棟梁家といった家格秩序が一応安定的に確立し、朝廷政治の骨格が形成されていたのである。 しかし、朝廷社会における政争の火種が完全に消失したわけではなかった。 あらたな政治秩序においては、家内部における継承者争いが政治を不安定化させる要因となっていた。そのような要因による権力闘争が勃発した直接のきっかけは、白河上皇の後継者として一一二九
(大治4) 年以来朝廷政治を総攬
してきた鳥羽上皇が、一一五六 (保元
元) 年七月二日に没したことであった。 白河上皇の在世中は政治的権限を封じられ、不仲の皇子である崇徳
への皇位の継承を余儀なくされた鳥羽上皇は、白川なきあと、父同様に自分の意志で皇位継承のあり方をコントロールして院政を開始するようになった。だが、鳥羽と崇徳のあいだの亀裂はそのまま残り、それが深刻な政治対立を招くこととなった。 鳥羽は、待賢門院藤原璋子
が産んだ皇子で、待賢門院と親密な関係にあった白河が実父であるとの噂
が流れていた崇徳天皇をうとみ、美福門院の産んだ弟の体仁
親王に皇位を譲らせ (近衛
天皇) 、一一五五 (久寿
2) 年に近衛が亡くなると、次の皇位に待賢門院を母とする雅仁
親王を就けた (後
白河 天皇)
。実は鳥羽と美福門院の本意は、美福門院の猶子
となっていた守仁 新王
(雅仁親王の子。後の二条
天皇) による皇位継承であり、後白河天皇は 「中継ぎの天皇」 として即位したのであった。しかし、すでに成人していた後白河にとってはそのような状況がおもしろいはずはなく、まためまぐるしい事態の推移のなかで、崇徳上皇もまた、子の重仁
親王の即位およびみずからの院政開始の道を閉ざされたいたことにおおいに不満をつのらせていた。 |