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武 家 棟 梁 と し て の 活 躍

2012/04/21 (土) 武 家 棟 梁 家 の 継 承

忠盛の長男として出生した清盛が、官位かんい 昇進の面で父忠盛の後継者の地位を固めていったことを前述したが、久安年間 (1145〜1151) ごろの清盛は、実はまだ完全な意味で忠盛嫡男の立場を確立いていたわけではなかった。それは、忠盛の正室せいしつ である藤原宗子むねこ (後の池禅尼) の子で、清盛の異母弟にあたる家盛いえもり の存在が、忠盛一門のなかで清盛に匹敵する立場をもっていたからである。正室腹であることの重みは無視し難く、清盛にまさ るとも劣らない官位の昇進をいていた家盛が、清盛にかわって忠盛の後継者の地位を得る可能性も小さくはなかったのである。
だが、家盛が一一四九 (久安5) 年三月に亡くなったことで、清盛の立場は安泰となった。七月九日の高野山こうやさん 大塔だいとう 造営の際には清盛は父の代官として登山し、十一月十一日に行われた鳥羽上皇の天王寺てんのうじ 参詣さんけい に公卿たちとともに供奉ぐぶ し、さらに一一五一 (仁平にんぴょう 元) 年二月二日に、父の知行ちぎょう する安芸あき 国の守に任じられていることなどは、忠盛の後継者としての清盛の立場を人々の目に明確に示すものであった。また、一一五二 (仁平2) 年三月に行われた鳥羽上皇の五十賀には、清盛は院庁いんのちょう 別当べっとう として参加しており、清盛が父同様に上皇の家政機関を支える立場を得ていたことがわかる。
だだし、清盛の兄弟には、家盛のほかにも忠盛正室宗子を母とする頼盛よりもり がいた。父の正室の子という立場を背景として、のちになると頼盛の存在は、平家一門の統率者としての清盛の立場を不安定にする要因となっていく。
一一五三 (仁平3) 年正月十五日に、平忠盛が没した。清盛は桓武平氏流武家棟梁家の家長かちょう となり、国家的軍事警察権の最高執行者の立場を父より引き継ぐこととなった。少しあとの出来事であるが、一一六〇 (永暦えいりゃく 元) 年五月十五日に鎮西ちんぜい の盗賊である日向ひゅうが 通良みちよし の追討使に清盛が任命され、清盛の郎党ろうとう である平家貞いえさだ によって通良とその従類じゅうるい 七人が討ち取られたことが、武家棟梁としての清盛の職務遂行の事例にあたる。
清盛は父忠盛の有した様々な権益を継承したが、そのなかで最もよく知られたものはろく 波羅はら の邸宅であろう。
かも 川の東岸に位置する六波羅は、本来は京に接近する葬送の場であり、古くから寺院が建立こんりゅう されてきた地であった。空也くうや が開いた西光寺さいこうじ もその一つで、西光寺が六波羅蜜寺みつじ と改称されたあと、同寺内に清盛の祖父である正盛が阿弥陀堂あみだどう を建立したことが、六波羅と桓武平氏の関わりの始まりである。清盛の父忠盛の時代にはほう 一町いっちょう の規模であったが、清盛によって方四町に拡大され、最終的には二十町の広さを持ち、清盛の住む泉殿いずみどの や頼盛の住む池殿いけどの などの平氏一門の邸宅がひしめく大規模な都市空間へと六波羅は発展していく。
また清盛は忠盛に死後、安芸国の知行国主こくしゅ の地位を忠盛から継承した。安芸国を代表する神社である厳島いつくしま 社と平氏一門のつながりや、安芸国の有力武士である 佐伯さえき 氏の清盛家人けにん としての活動などが、ここから始まるのである。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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