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武 家 棟 梁 と し て の 活 躍

2012/04/20 (金) 祗 園 社 闘 乱 事 件

一一四七 (久安3) 年六月十四日に行われた祗園社の りょう において、清盛を巻き込む一つの騒動が起きた。御霊会は、例年多くの貴族きぞく たちの祈願がなされ、田楽でんがく などが奉納される重要な祭礼であり、この年には清盛も翌十五日に田楽を奉納している。このとき、清盛の従者じゅうしゃ と祗園社の神人じにん とのあいだで闘乱事件が発生した。事の発端は、田楽の守護のために社頭に来ていた清盛の従者たちの武装に対し祗園社の神人がいいがかりをつけたことであった。争いのなかで、従者たちの放った矢が祗園社の建物や神人・僧侶に当たるという事態にはなったものの、この日はそれ以上の紛糾は見られなかった。
六月二十四日には祗園社を末社まつしゃ とする延暦寺の衆徒が鳥羽上皇に訴えたことで事件は表沙汰となったが、清盛の父忠盛が素早い対応を見せ、事件の責任者を鳥羽上皇に引渡し、清盛側の非を認めて穏便に事件を処理しようとした。
しかし、これにおさまらない延暦寺衆徒が二十六日に忠盛・清盛父子の流罪るざい を要求したために、事件は思わぬ規模へと発展することになった。
朝廷は、延暦寺の訴えを受けて事件の現場検証や公卿の会議などを行ったが、忠盛・清盛父子に軽々に厳罰をあたえることを上皇や公卿たちが躊躇ちゅうちょ したため、裁定はなかなかくだらなかった。これに業を煮やした衆徒たちが、比叡山ひえいざん を下って都に向い強訴を行う構えをみせたために、鳥羽上皇は忠盛・清盛の側に立つ姿勢を明確にし、事件の当事者である忠盛・清盛を除いた有力な源氏げんじ 武士と平氏武士を大々的に動員し、延暦寺の強訴に断固として対抗する措置をとった。
このような状況のなかで、清盛に贖銅しょくどう 三〇きん を科すべしとの明法家みょうほうか勘申かんじん は七月二十七日にだされ、八月五日に勘申に従った刑が清盛に言い渡された。早い話が、鳥羽上皇の力を後ろ盾として、清盛は罰金刑という軽い処分で事をすませられたのである。延暦寺が主張する重罰はついにくだされることなく、この一件は延暦寺内部の紛争へと形を変えた後、収束を迎える。
この事件には、院権力と延暦寺の思惑の板挟みのなかで、武士としての役割を貫くことに忠盛と清盛が苦慮するという構図が姿を見せている。のちの朝廷政治の事態の推移を見ると、世俗権力と宗教権力の対立の処理が清盛の後半生に一貫した課題であるといって過言でないと思われるが、その意味で祗園社闘乱事件の体験は、のちの清盛の処世に大きな影響を与えたのではないかと考えられる。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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