〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜
武 家 棟 梁 と し て の 活 躍

2012/04/20 (金) 栄 達 を 約 束 さ れ た 出 目 (二)

朝廷官人としての清盛の活動の記録は、一一二四 (天治てんじ 元) 年ごろより史料に見えはじめる。
大治だいじ 年間 (1126〜1131) ごろには白河上皇の院殿上人いんのてんじょうびととなり、一一二九 (大治4) 年正月六日にじゅう 五位ごいの に叙され、正月二十四日に左兵衛さひょうえの すけ に任じられ、以後の清盛の華々しい任官歴が始まることになる。この時の清盛の叙位じょい 任官にんかん に関して、権大納言ごんのだいなごん藤原 宗忠むねただ はその日記 『中右記』 に、「この春給爵、十年、備前守びぜんのかみ 忠盛男、人耳目を驚かすか。言うに足らず」 と記し、若年での清盛の叙爵じょしゃく に対する人びとの驚きぶりを伝えている。たしかに、武士の 衛府えふ への任官は三等官のじょう であることが通常であり、二等官の佐に任じられたことは破格である。そのような任官の背景に白河上皇や祗園女御との深い関係があったことは間違いないだろう。
以後の清盛は、一一三一 ( 天承てんしょう 元) 年正月五日に兵衛佐の労による従五位じょう 、一一三五 (保延ほうえん 元) 年八月二十一日には父忠盛の西国さいごく 海賊追討賞の譲りによるじゅう 四位しい への叙位と位階いかい を昇進させた。当時の武士に求められていた最重要任務の一つである海賊追討の恩賞を父より譲られたということは、この時点での清盛が武家棟梁忠盛の嫡子としての立場を明確にしはじめていたことを意味する。明確な根拠となる史料はないが、清盛自身が海賊討伐のため西国へ向かったことも当然推察できる。
さらに清盛は、一一三六 (保延2) 年四月七日に父の忠盛より中務なかつかさの 大輔だゆう 、一一三七 (同3) 年正月三十日には同じく父の熊野くまの 造営費の譲りにより肥後守ひごのかみ へ任官し、一貫して忠盛の権勢を背景とした昇進を続け、四〇 (同6) 年十一月十四日には従四位上、さらには四六 (久安きゅうあん 2) 年二月一日にはしょう 四位しいの と位階を上昇させている。なお、正四位下への昇叙について、 『公卿くぎょう 補任ぶにん 』 が 「鳥羽御給ごきゅう 」 とするのに対し、 『本朝ほんちょう 世紀せいき 』 は 「皇后藤原得子とくし の給」 としており、後者によるならば、この時点で清盛は鳥羽皇后 美福門院びふくもんいん 藤原得子に奉仕する立場にあったことになる。のちの清盛は美福門院の力を得て政治力を伸ばすことになるが、両者の関係はこのころまでにさかのぼることが、推測されよう。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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