朝廷官人としての清盛の活動の記録は、一一二四 (天治
元) 年ごろより史料に見えはじめる。 大治
年間 (1126〜1131) ごろには白河上皇の院殿上人となり、一一二九
(大治4) 年正月六日に従
五位 下
に叙され、正月二十四日に左兵衛
佐 に任じられ、以後の清盛の華々しい任官歴が始まることになる。この時の清盛の叙位
任官 に関して、権大納言藤原
宗忠 はその日記 『中右記』
に、「この春給爵、十年、備前守
忠盛男、人耳目を驚かすか。言うに足らず」 と記し、若年での清盛の叙爵
に対する人びとの驚きぶりを伝えている。たしかに、武士の 衛府
への任官は三等官の尉
であることが通常であり、二等官の佐に任じられたことは破格である。そのような任官の背景に白河上皇や祗園女御との深い関係があったことは間違いないだろう。 以後の清盛は、一一三一
( 天承 元)
年正月五日に兵衛佐の労による従五位上
、一一三五 (保延
元) 年八月二十一日には父忠盛の西国
海賊追討賞の譲りによる従
四位 下
への叙位と位階 を昇進させた。当時の武士に求められていた最重要任務の一つである海賊追討の恩賞を父より譲られたということは、この時点での清盛が武家棟梁忠盛の嫡子としての立場を明確にしはじめていたことを意味する。明確な根拠となる史料はないが、清盛自身が海賊討伐のため西国へ向かったことも当然推察できる。 さらに清盛は、一一三六
(保延2) 年四月七日に父の忠盛より中務
大輔 、一一三七 (同3)
年正月三十日には同じく父の熊野
造営費の譲りにより肥後守
へ任官し、一貫して忠盛の権勢を背景とした昇進を続け、四〇 (同6) 年十一月十四日には従四位上、さらには四六 (久安
2) 年二月一日には正
四位 下
と位階を上昇させている。なお、正四位下への昇叙について、 『公卿
補任 』 が 「鳥羽御給
」 とするのに対し、 『本朝
世紀 』 は 「皇后藤原得子
の給」 としており、後者によるならば、この時点で清盛は鳥羽皇后 美福門院
藤原得子に奉仕する立場にあったことになる。のちの清盛は美福門院の力を得て政治力を伸ばすことになるが、両者の関係はこのころまでにさかのぼることが、推測されよう。 |