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武 家 棟 梁 と し て の 活 躍

2012/04/20 (金) 栄 達 を 約 束 さ れ た出 目 (一)

清盛は、桓武かんむ 平氏へいし 流武士団の嫡流の家に生まれた。
桓武天皇の子孫である平氏の流れを概観すると、高棟王たかむねおう の子孫でおもに文筆官僚を輩出した一流と、高望王たかもちおう の子孫でおもに武士を輩出した一流の二つに大別することが出来る。高望王の子孫の系譜をさらに見ると、東国とうごく に土着した武士団を出した良文よしふみ良茂よしもち などの流れと、東国から拠点を伊勢いせ に移し、やがて朝廷の政治権力と密接な関係をもって京で活躍するようになった維衡これひら (藤原ふじわらの 秀郷ひでさと とともに平将門まさかど 追討に功のあった 貞盛さだもり の子) の子孫に分かれていく。
維衡の曾孫にあたる正盛まさもり は、検非違使けびいし検受領ずりょう を歴任し、伊賀国いがのくに にあった所領を一〇九七 (承徳しょうとく 元) 年に白河しらかわ 上皇じょうこう の皇女である故郁芳門院いくほうもんいん ?子ていし 内新王ないしんのう菩提所ぼだいしょ に寄進したことを契機に白河に接近して院北面いんのほくめん となり、海賊追捕や謀反人むほんにん の鎮圧さらには延暦えんりゃく 興福こうふく 強訴ごうそ における衆徒しゅうと の入京阻止などでたびたび武功をあげ、白河や摂関家せっかんけ の厚い信頼を得て伊勢平氏台頭の基盤をつくった。
正盛の子である忠盛ただもり もまた、父同様に海賊追捕や強訴対策などに活躍するとともに、軍事力のみならず豊な経済力によっても白河・鳥羽とば 両上皇の院政いんせい を支え、武士としてはじめて内昇殿ないしょうでん を許され、伊勢平氏の政治的権威をさらに高めた。上皇からの直接の命令を受けた正盛と忠盛による海賊・謀反人の鎮圧の実績によって、桓武平氏の嫡流が持つ全国武士を統率する立場すなわち武家棟梁家ぶけのとうりょうけの地位が確立していったのである。
清盛は、一一一八 (元永げんえい 元) 年正月十八日に忠盛の長男として誕生した。清盛が白河上皇の落胤らくいん であるとする説が長く流布してきたが、それを証明する史料はない (逆に言うと完全に否定する史料もないのだが) 。母は白河院の女房にょうぼう であり、一一二〇 (保安ほうあん 元) 年に亡くなった 「忠盛妻」 (『中右記ちゅうゆうき 』 同日条) ににあたると考えられる。問題はこの女性の出目で、古くは 『平家へいけ 物語ものがたり 』 などの記述をそのまま信じて、白河上皇の寵妃ちょうき である祗園ぎおんの 女御にょうご にあたるとされてきたが、この理解は根拠に乏しく、滋賀県の胡宮このみや 神社に伝存する 「仏舎利ぶっしゃり 相承そうしょう 次第しだい 」 という史料の記述に基づいて、祗園女御の妹で白河上皇に仕えた人物であるとする判断が妥当に思える。ただし同史料は後世のものであり、記述のあり方にも不審な点があることから、清盛の実母の出目に関して断定的な結論は下し難いとせざるを得ない。
だが、祗園女御が清盛の母であるとする言説自体には歴史的背景が存在した。
清盛の祖父正盛および父忠盛は祗園女御に取り入ることで官位の昇進を果たしており、平氏一門と祗園女御のあいだに深いかかわりがあったことは確かな事実であった。父子・母子関係の実否にかかわらず、白河上皇と祗園女御という二人の権力者の庇護を受けた清盛は、生まれながらにして栄達の道を保証されていたといえよう。

『平 清盛 「武家の世」 を切り開いた政治家』 著:上杉和彦  ヨ リ
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