かなたの重盛は、その時、ほっとひと息入れて、椋
の木のそばに、弓を立てて休んでいた。 「今っ」 と見て、義平は、馬の尾を風に流して、跳
んで来た。 「もの申さんっ ──」 と、呼びかけた。振り向いた重盛の眼と、燃え立つかれの眼が、はたと会った。 「これは、鎌倉の悪源太義平です。左馬頭義朝が嫡子。君は平家のたれの子か、名乗り給え」 すると、重盛も、ぱっと、
雪泥 を、馬蹄
に蹴返 して、向い直った。 「おお悪源太とは和殿
か。大弐清盛の子、左衛
門佐 重盛
は、おれぞ」 紫宸殿の名とともに 「左近の桜」 と 「右近の橘
」 は、世に有名だ。紫宸殿は南殿ともいって、皇居の南の正殿である。九間四方、勾欄
をめぐらし、内に身舎 があり、中央に、宸座
の 帳 を立て、大極殿とともに、大礼の儀式が行われる所。 「聖賢
ノ障子 」 また 「紫宸殿」
の額 のかかっている額
ノ間 もある。 額ノ間の前に、十八段の階
があり、下の左右に、左近の桜と、右近の橘が、植えられてある。 南庭
は、白砂 小石を敷き詰めてあるので、植樹のある辺りを玉敷
ともいう。 総じて、この大庭は、庭とはいえ広大な地域であった。その東口と西口には、月華門と日華門が対
いあい、例の椋の大木も、この内にあった。 悪源太義平と、平ノ重盛とは、この大庭を、縦横に馳駆
しながら戦った。 一騎と一騎。 人交
ぜもせぬ決戦である。 義平は十九、重盛は二十二歳。一は源氏の御曹司
、一は平家の公達 。そしてどっちも、そのときの源平両代表の嫡男であった。 おそらく、重盛は、すぐ箙
の切斑 の矢を抜いて、弓につがえ、 「うけよ、悪源太」 と、第一矢
を、切って放ったことだろう。 義平は、初めから、弓を持たなかった。射向
けの袖 を、楯
にかざして、 「一期
の見参 を、矢にて応
え給うか。卑 怯ぞ、打物
取って、向かわれよ」 と、遮二
無二 、かれの手もとへ、近づこうとした。 そのまに、重盛はまた、二の矢を放った。そして箙
の三の矢へすぐ手をかけたが、尾
けまわす義平の駒 の迅
さに、矢を番 えているひまがない。 かれの栗毛
は、突然、椋の木から月華門の前を斜めに走った。すると義平の黒
鹿毛 は、先回りして、かれの横へ、当てて来た。 「やよ、六波羅の公達
。名ほどもなく、うしろを見するか」 「なんの、鎌倉の悪童
づれに」 と、重盛は答えた。とたんに弦
鳴 りを発して、重盛は、相手が矢に面
を伏せたひまを計って太刀を抜いた。 馬上同士の接戦となった。白刃
と白刃が斬 り結ぶかに見えた。しかし事実は、よほど相互の距離と姿勢
が、合致しないと、太刀打ちにならない。鞍と鞍が、ぶつかりあうほど、接しても、その条件にはまらなけらば、一方は、咄嗟
に、馬を交 わしてしまう。 こうして、馬上同士の一騎討ちは、半ば以上、馬術の練磨
が大きくものをいうことになる、従って、しのぎをけずり、火花を散らす程な斬りあいはあり得ない。閃々
、多くは、空 を切って、駆け交
い、駒を 回 しては、相
博 つのだった。 それにしても、生命
を賭 して、人間と人間とが、全霊全力を燃焼しあう
“勝負” であることに変わりはない。 頭
から足の先まで、身に、家重代の宝甲
と絢爛 の美を鎧
い、肌 には 伽羅
を焚 き秘め、草摺
に、平安朝特有な色糸をおどし、小札
、裾 金具
の小さな物にも、名匠」「名工が、心を込めたタガネの彫りや金銀の鍍金
をちりばねて、その “勝負” は果たされるのであった。 いや、すがた、装いだけでなく、心も、 「恥こそ、かくな」 「名をこそ、惜しめ」 と、そのころの道義を、武者の価値基準において、無道な埒外
では戦うまじとそていた。乱軍の雑兵戦では、この制約も行われなかったであろうが、敵味方を代表する名ある者の一騎打ちでは、少なくともその鉄則は守られた。 |