ついに決行されたこの晩の主上
の皇居落ち ── 黒戸
御所 からの脱出は ──
たれの頭脳に出たものか、とにかく、よほど緻密
な計画のもとに実行された秘策に違いない。 ひとり監禁中の主上を奪取するだけでなく、同時に、上皇後白河をも、仁和寺へお落し申さなければならなかったのであるから、むずかしさは、なおさらであったろう。 もし、内裏
を出ないうちに、信頼
一味に覚られていたら、時局は一変し、以後の歴史は、どう変わっていたか分からない。 また、主上が、御車
にかくれて、藻壁門
を出る時、金子十郎が、女装の陛下を、これは男だなと、観破していたら、ここでも、どんな事件が突発していたか知れないのである。 扈従
の臣は、まさに薄氷を踏む思いであったろう。 主上にも、あの時、金子十郎の弓の先で、御簾
をめくり揚げられたせつなには、南無
三 ── と、観念されたに違いない。 史記によると、あらかじめ、主上へは、御鬘
を奉り、女房飾
りを召されたとあるから、単に、花やかな御衣
をかぶられたばかりでなく、御化粧をもほどこされ、黛
も描かれていたらしく思われる。 もちろん、御衣には焚
き香 の薫りもしみていたであろし、松明の焔
に竦 ませ給うたおん姿の美しさには、坂東武者の眼も、ただ畏
さに打たれて、真の女性か、女装の男性かも、よく見極め得なかったのは無理でもない。せっかく、見とがめながら、御車
を通してしまったことは、信頼の徒
にとっても、源氏の運命にとっても、実に、重大な一失ではあったが、さればとて、金子十郎一名の落度とも、責められないものがある。 なぜならば、御車が、かれらの虎口
を脱し得るか否か、 剣
の刃 を渡って行くような大事な時に、ほかの宮門や要所にもいた哨兵
は、全然、別なことに気をとられて、それを怪しみもしなかったのである。 理由は、── これも後には、六波羅方の巧妙な心理戦術と知れたが、ちょうど、その時刻に、二条大宮方面の空に、火の粉
や黒煙 が望まれ、平家の軍勢が、加茂上流に迂回
したとか、叡山 の僧兵が、清盛と通じているとか、紛々
たるきのうきょうの風説を裏付けるように、騒ぎ立っていたのであった。 このため、悪
源太 義平
は、父義朝に命ぜられ、急遽
、一隊の騎兵をひきいて、二条大宮へ駆け出していたし、諸門の兵も、それぞれ動いて、鞍馬
口 へ備えを出すなど、あらぬ幻影の火の手に無用な心を労
っていたものなのである。── 主上の 御車
は、この間隙 を縫って、じつに万に一つの脱出に、成功したものだった。 世にこのときの陛下のいでましを
“六波羅 行幸
” と称 んで、脱出とは言っていないが、事実は、もっともっと劇的であったに違いない。こう事が運ばれるまでの裏面史は決して単純ものではなく、二条帝御自身も、一死を賭
しての御決行であったろうし、さらに最大な運命を賭けていた者は、いうまでもなく、清盛であった。 小技
は不得手なかれであるが、こういった大技
になると、かれならでは、やり手はない。こんな難局の大舞台を、いながら回転させ得るほどな力量の人物は、平安朝の幾世紀にも、この日までは、出
づべくして出なかったものといっても過言ではない。 余談を述べすぎたが、以下、主上の御車が、ひとたび、皇居を脱して、六波羅の門へ向かうや、いかにそのことの結果が、時局に急激な転換をきたしめたか。また大弐
清盛なる二流人物を、一躍、時代の主動的人物にさせて行ったか。驚くべき変化を読者は読まれるあろうと思う。いわゆる 「六波羅行幸」 と称
んで、史家がこれを重視する理由はそもにあるのである。何しろ、いろいろな意味において、平安朝という世代は、この夜の御車
をさいごとして終わったといえよう。藤原貴族政治四世紀の長い長い軌
のあとを一切過去として、烏羽
玉 の現在を、さらに果て知らぬ未来へと、旋
り急いでいたものであった。 |