天皇を黒戸御所へ。上皇を、一本
御書所 の内へ。常識では考えられない暴挙である。 いったい、どういう目的と利を策して、こんな思い切った非常手段をあえてとったものか、後の史家も
「ソノ主意、那辺ニアルヤ、解釈ニ苦シムノミ」 といっている。 信頼としては、信西入道
こそ、恨みも殺意も持っていたろうが、後白河を悪
み奉る理由はすこしもない。いやかれでも、惟方
、経宗にしても、人いちばい天皇と上皇の恩寵
を受けていた輩 である。 ──
それが? という程度の推理では解けそうもない。分らないとする頭は、尋常の情理で推すからである。そんな場合の常識には当てはまらない。 一夜に国家の擾乱
を計って、朝権を握ろうとするような不逞
を行動を起こす場合、わけて、小人輩
の暴挙だと、必ずそのやり口に、やり過ぎや、齟齬
や、逸脱 がある。自信として正しい計画によれないで、頭脳だけが飛躍し過ぎてしまうのである。 おそらく、一味の考え方は、こうだったのではあるまいか。 なによりは、真っ先に、朝廷を圧して、その大権をおさえてしまおう。 天皇、上皇のおからだは、絶対に自陣のうちに持つことが必要だ。そのためには、どう御意志を拘束しても、一時、幽閉し奉ることも、やむを得ない。 かつは、信西、清盛などと対戦のばあいには、綸旨
、院宣 をいただいて、かれらを朝賊となすことが出来、皇居の墻
を楯 として、かれらの弓箭
をにぶらすという作戦も不可能でない。 等々々、小人の小智らしい機略が、五条の鼻の家の奥で、密議された結果であろう。 信頼や、惟方、経宗などの考えそうなことである。かれらは、帝寵
に狎 れ過ぎていたし、また、禁裡
の奥深い場所などにも精通していた。その点からも、これが義朝の知恵でなかったことだけは明らかである。義朝としては、もう乗りかけた船、そして、坐して平家の隆運を見、後に、信西と清盛の制圧下に自滅の憂き目に会うよりはと、べつな覚悟をもって臨んだことにちがいない。 いずれにしても、この一味は、信西の勢力と清盛の兵力を過大に強敵視していたらしい。それをたおして完全な勝利を得るためにはと、手段を選ばない挙に出たものと思われる。
i一方 ── あのあとの、三条烏丸の焼き討ちと、殺戮
ぶりを見ても、その異常には、ただごとでないものがある。それは単なる作戦でも戦闘でもない。総帥者
の頭脳の突飛な思いつきを、そのまま無軌道にやってのけたに過ぎない修羅
を現出している。 信頼、義朝、その他が、一本
御書所 から再び馬をそろえて引っ返して来ると、はや三条烏丸は、炎々と、火の海であった。 烏丸から皇居待賢門までの大路も、また夜空も、赤々と火光に染まり、煙雲の間から不気味なほど青い星が、火の粉にまじって、明滅している。 狂せるような徒歩
武者 二、三十人が彼方から疾走して来た。信頼の馬が首を上げて狂った。鉾
や長柄 の光に驚いたのであろう。信頼は度
外 れに、うろたえ出した。 「や、や、敵ではないのか。平家か源氏か」 義朝がうしろで笑った。 「味方でしょう。たとえ敵勢であろうと、驚くにはあたりません」 駆け寄って来たその一群の者は、やはり味方の武者だった。信頼、義朝たちの姿を見ると、喊声
を上げて、口々に三条方面の戦況を伝え、 「院の近習、大江
家仲 、右衛門尉
平 康忠
の二人を、たった今、烏丸の東の辻で、かくの通り討ち取りました」 と、太刀の先にさした二つの首を大将の見参にそなえた。 信頼はやはり公卿である。さすが正視にたえなかった。そこで「義朝が、代わって、 「よし、待賢門の前へ行って、それを翳
し、高らかに、勝鬨
を叫べ。討たれたるは平家のたれ、討ったるは源氏のたれと、繰り返して呼ばわるかいい」 と、命令した。それも宮門への威嚇
になることは間違いない。 後ろの喊声を聞き捨てて信頼、義朝たち騎馬の一団は、また朱雀を西へ駆けていた。 そして今し院中の阿鼻
叫喚 をくるんで燃え熾
っている烏丸の一角まで取って返して来た。── このころでも時刻はまだ丑満
(午前二時) にはなっていなかった。驚くべき迅速さではあった。 |