〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/03/27 (火) 暗 黒 宮 (三) 

ここだけには、烈風があった。巨大なほのお は、ちぎれては飛び、ちぎれては飛び、小さな焔の子を、無数に八方へ立ててゆく。
つい一とき 前まで、上皇や妹子の君が、宿直とのい たちと、笑いさざめいておられた夜御殿よるのおとど もあたりも、烈火と黒煙くろけむり で、見えもしない。
殿楼でんろう玉舎ぎょくしゃ華廊かろう勾欄こうらん も、火の魔の乱舞には、 れ舞台のようである。泉殿いずみどの の水も燃え、木々も燃え、石も地も、降りそそぐ火箭ひや のあらしに、鳴りたぎ っている。

── 猛火ミヤウクワ ハ空ニミチテ、強風ハ煙雲エンウン ヲ揚ゲタリ。公卿殿上、女房達ニ至ルマデ、 「コレ モ、信西ノ一族ニヤアラン」 トテ射伏セ、斬リ伏セ、囲ミタレバ、火ニ焼ケジト出ズレバ矢ニ タリ、矢ニ中タラジト返レバ、火ニ巻カレ、多クハ、庭ノ ニコソ飛ビ入リケれ。
ソレモ暫シ、井ノ下ナルハ水ニオボ レ、中ナルハ圧サレ、上ハ火ニコソ焼カレタリ。造リ重ネタル殿舎デンシャ ハ炎ヲ逆シマニシ、灰燼クワイジン ハ地ヲホトバシ レバ、ナド助カルベキ。カノ阿房宮アバウキユウ ノ炎上トイヘ、妃嬪ヒヒン 采女ウネメ ハ死ナザリシヲ、コノ仙洞ノ焼亡ニハ、月卿雲客、女房達マデ、数多アマタ 命ヲ落スコト浅ましけれ ──
こういう状況は、古文でこそ読めもするが、再びこれを精写するには忍びない。
また一説には。
信頼、惟方などが偵知していた情報から、この晩、仙洞御所には、信西の子息だけでなく、信西入道自信も泊っていると見込んでいたための行動であったとも言われている。
しかし、信西は事実いなかった。
騒ぎと同時に、貞憲は女房衣をかぶって、逸早く下部しもべ 門から脱出し、兄の俊憲はうろたえて、一たん北ノうてな床下ゆかした へもぐりこんでいたが、たちまちこれも火に追われて、いずこともなく逃げ去った。
「姉小路へ行け。姉小路へ」
「信西は、ここにはいないときわ まった。姉小路の家とみゆるぞ」
「きゃつを、逸しては」
と、まだそこも焼け落ちないうちに、一隊は分かれて、姉小路西洞院へ殺到し、少納言信西の居館を包囲した。
裏表からわらわらと松明たいまつ を投げ込み、ここでも殺戮をほしいままに振る舞った。もしや信西入道が、姿を変えて逃げ出すおそ れもあるぞとおめ きあって、黒煙くろけむり の下をまろ び出て来る女童めわらべ まで見境なく斬り殺した。けれど、ついに本人の信西は、やがて夜明けの後の、灰の中からも、見出されなかった。
『新・平家物語(二)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ