ここだけには、烈風があった。巨大な焔
は、ちぎれては飛び、ちぎれては飛び、小さな焔の子を、無数に八方へ立ててゆく。 つい一刻
前まで、上皇や妹子の君が、宿直
たちと、笑いさざめいておられた夜御殿
もあたりも、烈火と黒煙
で、見えもしない。 殿楼
や玉舎
、華廊
の勾欄
も、火の魔の乱舞には、曠
れ舞台のようである。泉殿
の水も燃え、木々も燃え、石も地も、降りそそぐ火箭
のあらしに、鳴り沸
っている。
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──
猛火
ハ空ニミチテ、強風ハ煙雲
ヲ揚ゲタリ。公卿殿上、女房達ニ至ルマデ、 「是
モ、信西ノ一族ニヤアラン」 トテ射伏セ、斬リ伏セ、囲ミタレバ、火ニ焼ケジト出ズレバ矢ニ中
タリ、矢ニ中タラジト返レバ、火ニ巻カレ、多クハ、庭ノ井
ニコソ飛ビ入リケれ。 ソレモ暫シ、井ノ下ナルハ水ニ溺
レ、中ナルハ圧サレ、上ハ火ニコソ焼カレタリ。造リ重ネタル殿舎
ハ炎ヲ逆シマニシ、灰燼
ハ地ヲ迸
レバ、ナド助カルベキ。カノ阿房宮
ノ炎上トイヘ、妃嬪
采女
ハ死ナザリシヲ、コノ仙洞ノ焼亡ニハ、月卿雲客、女房達マデ、数多
命ヲ落スコト浅ましけれ
── |
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こういう状況は、古文でこそ読めもするが、再びこれを精写するには忍びない。 また一説には。 信頼、惟方などが偵知していた情報から、この晩、仙洞御所には、信西の子息だけでなく、信西入道自信も泊っていると見込んでいたための行動であったとも言われている。 しかし、信西は事実いなかった。 騒ぎと同時に、貞憲は女房衣をかぶって、逸早く下部
門から脱出し、兄の俊憲はうろたえて、一たん北ノ台
の床下
へもぐりこんでいたが、たちまちこれも火に追われて、いずこともなく逃げ去った。 「姉小路へ行け。姉小路へ」 「信西は、ここにはいないと極
まった。姉小路の家とみゆるぞ」 「きゃつを、逸しては」 と、まだそこも焼け落ちないうちに、一隊は分かれて、姉小路西洞院へ殺到し、少納言信西の居館を包囲した。 裏表からわらわらと松明
を投げ込み、ここでも殺戮をほしいままに振る舞った。もしや信西入道が、姿を変えて逃げ出す惧
れもあるぞと喚
きあって、黒煙
の下を転
び出て来る女童
まで見境なく斬り殺した。けれど、ついに本人の信西は、やがて夜明けの後の、灰の中からも、見出されなかった。 |
『新・平家物語(二)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ
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