〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/03/25 (日) ふか くさ ぼう (二)

一介いっかい の公卿儒官から、にわかに、朝権の中心に立った少納言信西入道には、当然な、敵があった。
しかし少納言のきょく片隅かたすみ で、長年のあいだ、一事務官吏におかれたまま、根気よく無為無能な顔をして、よく隠忍を続けてきたかれだけに、ひとたび、
乃公だいこう づ)
と、自負して出ると、まるで面目を違えていた。快刀かいとう 乱麻らんま という、おもむき があった。その政治的才腕は、むしろ、 れすぎた。
保元の戦後処理も、思いのまま片づけ終わった。大内裏の造営も成し遂げた。そのほか地方税制の改革やら、古礼の復古やら、都内の武器携行禁止やら、彼の意中から出た政令刷新は、枚挙まいきょ にいとまがない。人材の抜擢、大臣の更迭、また賞罰の振り当てにいたるまで、じつに明快は明快だが、余りにも堰を切ったようで、果断のきらいがないでもない。いや、その独裁ぶりに、もう非難の声が出始めていた。
独裁者が乱を呼ぶのか、乱が独裁者を作るのか、とにかく、保元以前にはなかった型の覇権はけん 的人物が、一夜に出来た地殻ちかく 異変いへん の山のように、忽然こつねん と、政権に立って、この荒治療をし出したものである。
新院の遠流おんる 。為義、忠正などの斬刑、そして新院方の百名ぢかい公卿武将をも、つか まえては斬らせ、捕まえては斬らせ、寸情の仮借かしゃく をしなかったのもかれのさしずといわれている。
当時。── その恐怖政治を見て、とが文覚もんがく は、信西入道の館へ、献言に行ったが、結果は、信西に面会を避けられて、いたずらに、大声たいせい 疾呼しつこ し、文覚大暴おおあば れの一場面を演じて帰ったに過ぎなかった。
もとより信西も、他人の脅迫などで、所信を曲げる男ではない。
むしろ、かれのやり口は、以後いよいよ辛辣しんらつ を加え、
(かれは敵、かれは、自分の支持者)
と、はっきり、見分けをつけてびょう へ臨んだ。政敵は政敵として、正面から反目し、相手を屈服させずには かないとする概がある。
もちろん、かれが、いかに時を得たにしても、単なる政治的な手腕だけでは、こうまで、振舞えるわけのものではない。信西入道をして、この自負心を持たせたものは、やはり武力であった。平家の惣領清盛と、陰に、手を握っていたことにある。
両者の関係は、久しい仲だし、信西の妻伊ノ局と、清盛の妻時子との交わりも変わりがない。── 保元の論功行賞は、それの覿面てきめん な現われでもあった。清盛には厚く、源氏の義朝には薄かった。
その時でさえ、義朝が、左馬頭に叙されたのに較べて、清盛の播磨守は、実質的に格段の優位だといわれていたのに、清盛のみは、その後もまた、大宰大弐 (大宰府の次官) に昇官されていた。いや、清盛に限らず、ろく 波羅はら の一族は、経盛、頼盛、教盛などを始め、みな、何かの役名についたり、昇官したりしている。
半面、秋風の寂寥せきりょう に、肩をせばめていたのは、源氏の人びとだった。
義朝の心事であった。
その義朝を中心として、信西政策への不平と、六波羅一族への対立感は、深刻に、上限以後の、源氏武者の骨身に、 みていた。
深草の信頼一派の反信西と、義朝一党との不平とは、こうして、まったく、別な立場、別な対立感情から出たいぶ りであった。

『新・平家物語(二)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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