五部大乗経の御写経は、三年余りの心血の御結晶として、やがて、終業された。 ──
とともに、新院は、極めて自然なお望みを抱かれた。 「これは、自分の悪心悔解
のため、また、罪業
の償 いのため、一千一百日の間、身を苦しめ、心を責めつつ、一念菩提
を祈誓して、浄写し終わったもの。── かかる配所に、朽ち捨てさすもわびしい限りよ。せめては人の世の、貝鐘
の音 もする仏閣の地へ供えたい。・・・・願うらくは、父鳥羽法皇の、とこしえに眠りて在
す安楽寿院
の一隅 の土とともに置きたい。そこに置かれたならば、後生
までの、おん詫 びともなり、どれほど自分の心も安らぐか知れまい」 思し召しは、目代
から国司 李行
を通じ、御写経の数巻とあわせ、長文の祈願書となって、都へ送られた。 これについては、院の御兄弟たる仁和寺の法親王を始め、ひそかな同情者も、朝廷の聴許をうることに、ずいぶん、運動もしたことと思われる。 ところが。 やがて、官の意向は
「主上おん免 しましまさず」
と令達し、法親王の御書状にも 「おん咎
め重くおわせば、たとえ御手跡たりとも、都に近き地には置かれ難き由──」 とあって、心血の御写経数巻は、日を経て、そっくりそのまま、突っ返されて来た。 これを、都へいたすとき、院には、御写経の巻末に、 |