── こえて、仁安三年の初冬のころ。 白峰のお墓所のほとりに、一人の旅僧が、たたずんでいた。 この秋、都を出て、四国を遍路してきた西行法師であった。──
このとき西行自筆の紀行によると、 |
──
白峰といふ所尋ねまゐり侍りしに、松の一むら茂れるほとりに、杭
まはしたり。これなん、御墓にやと、掻
き暮らされて、物もおぼえず。 むかしは、まのあたりに、見奉りし事ぞかし、清涼
、紫宸 の間、百官かしづかれ給ひ、後宮
後坊 の台
には、三千の美翠 の釵
、あざやかにて、おん眦
に懸らんとのみ、倖せし給ひしぞかし。豈
、想ひきや、今かかるべしとは。 一天の君、万乗のあるじも、しか斯
くの如し。宮も、藁屋
も、果てしなければ、高位も願はしきに非ず。ただ、行きて泊り果つべき、仏果の円満のみぞ、ゆかしく侍る。とにもかくにも、涙ながらに。 | よしや君 むかしの玉の床とても かからん後は 何にかはせむ |
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西行紀行の白峰のくだりは、なお長文である。おそらく西行は、松落葉の下にひざをかかえ、冬日のうすづくまで、思いを、世の推移や、春秋の人びとに、馳
せめぐらしていたことだろう。 かれがまだ、院の武者所
佐藤義清たりし若年のころには、かれ自身が書いているよおり 「眼のあたりに見奉りし事ぞかし」 と、思い出される新院の君であった。否、若き美しき聖天子、崇コ天皇の御代であった。 「・・・・・」 西行の瞼
には、すべてが、幻影のようである。 かれは、宮秘にもいささか通じている。 ── この君のこうなった宿命の因
を、遠くたずねると、崇コの御母、璋子 (待賢門院) をめぐっての、白河、鳥羽両院のおん仲たがいこそ、第一のいんが禍因よとお恨みせずにいられない。 また、美福門院の女性的偏質が、いかに、権力欲の亡者たちにとって、乗じやすい禍
いの門であったかも、心を寒うして、振り返らずにいられなかった。 まことに、邪臣策謀家の、乗ずべき機会と温床が、そこにあった。 「傷
ましいかな。まことに、時代の業
がなせる犠牲
の君でお在
された。余りに、御意志の弱いがために、人為
の栄花が必然に生む悪因悪果を、お身ひとつに負い給うて、世の犠牲とは成り果てられた。・・・・」 黄昏
かかる白峰の小道を、西行は、孤影さむざむと降りて行った。 かれには、今夜の宿のあてもないい。一椀
の粥
が自分を待っていてくれるかどうかも分らない。けれど、心にはなんの不安もなかった。近ごろ世上では、崇コ院の呪詛
ということが、またしきりに言われ出し、今なお、 (──
われ大魔王とならば、王をとって下民となし、下民をもって王となさん) と、断末魔にいわれたというお言葉などが、耳新しく繰り返され、人みな恟々
たるものがあったが、かれには、そんな苦労もなかった。きょうの野菊の歌を、心のなかで推敲
し、あしたの旅の紅葉を想
い、夜の道さえ、楽しくてならなかった。 |
『新・平家物語(二)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ
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