〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/03/23 (金) 夜 の 親 (二)

中院雅定は、さっそく、朝議の日に、
(左馬頭義朝の嘆願により ──)
と、そのことを、もち出して、
「子の軍功に代えて、父「為義の一命は、助けてとらせては、どうであろうか」
という私見を添えて、主上、ならびに、諸卿の考慮をもとめた。
雅定は、また、
「これは、決して、わたくし一個の、私情ではない」
と、公明な理由をあげて、人びとの同意を求めることにも努めもした。
その理由とするところは、
「わが朝で、弘仁の元年、左兵衛督仲成が、人心を騒がせて、多くの人を、乱に死なせたとき、仲成を死罪にした以外は ── 帝王二十六代、三百四十七年というもの ── その間に、死刑は一度も行っていません。四世紀も、死刑なくすんでいた世を、また、死刑を行う忙しい世にしなくてもよろしいでしょう。人、一さつ をなせば、さつ また殺を生じ、百殺もなお足らず ── とかいう古言もあります」
雅定は、転じて、為義を弁護して、こうも言った。
「── かれが、新院方にくみ したのも、また、旧恩によるものです。それに、年も六十をこえ、病にも悩む老将です。祖父八幡太郎義家は、朝廷のために、陸奥みちのく の果てまで って、大きな功もあり、なお余風を慕う武者が、坂東地方には多いともいわれておる。かれを、死罪にしたら、恨む者も多いでしょう。── 裁かば、必ず、裁かれん。── 世のけわしさに、けわしさを加えるような政治が、朝命のおん名をもって、なされてゆくことを、わたくしは、かなしみます、怖れます。仁と大愛こそ、わが朝の、まつりごとの姿ではありますまいか」
すると、たれか座中で、笑う声がした。
少納言信西入道であった。
「きのうは、きのう。きょうはきょう。── 政治の大事は、今日を、 ることだ。── 雅定どのは、善言を吐かれた。しかし、雅定どのは、今日の世態を、御存知ない」
信西の舌鋒ぜっぽう に会っては、かっての、悪左府さえも、一歩をゆずったものである。
その信西が、いまは、その雄弁に加えて、権力を持っている。かっての悪左府頼長に、そっくりな態度で、あたまから、反対するのであった。
「もし、為義をゆるす程なら、新院の御処分などは、思いもよらぬ。またもし、為義の死をゆるして、流罪にでもしようものなら、遠国において、同類を集め、ふたたび何をたくら むか知れますまい。かつは、清盛すらもすでに叔父おじ を討って、いさぎよく、わざわ いの根を断っているのに、ひとり為義、義朝父子ばかり、特別なおはからいを仰ぐのは、公平でないことにもなる」
信西入道は、たえず、薄笑いをたたえて、雅定を見ていた。義朝に頼まれていることを、知っているからだ。
「── 検非違使けびいし の内偵によれば、左馬頭は、わが屋敷へ、父の為義を、匿っている様子だと申しておる。万が一、それが真ならば、奇怪至極だ。すておけぬ違勅でもある。ただちに、他の武将に命じて、義朝を討ち、為義を召し るべきだとさえ考えておるのに、さりとは、中院殿の甘いお説ではあるよ」
と、吐き捨てるように、一蹴いっしゅう した。
時勢の急変にはありがちである。いくさ に敗れれば暴民を生み、戦に勝てば一人の覇者はしゃ を生む。── 乱後、信西入道の権勢ぶりは。朝議のたびごとに、表面化していった。── とても、雅定では、いい勝てない。
雅定は、家に帰ると、ひそかに、義朝を呼んで、わけを話した、そして、
「まずくすると、ほかの武将が、御辺の屋敷へ、討手に向かうやもしれぬぞ」
と、注意した。
義朝は、悩んだ。いまさらに悔いた。なぜ、勝も負くるも、父や弟たちと、一つ陣に拠って、天命をまたなかったかと。
股肱ここう の家来、鎌田正清や波多野次郎は、はやくも、主人の苦悩を、察知していた。── いや、家来の主なる者は、みな知っていた。
せっかく、運を けて、戦に勝ったかれらにとり、これは、大きな動揺になった。勅にはしん を討つ、という慣いもある。もしこのために、賊名をうけ、さきの戦功も帳消しにされて、朝廷の討手をうけてはたまらない ── という心配である。
悶々もんもん の一夜を明かし、二夜を明かし、ついに、義朝は、腹心の鎌田正清と波多野次郎に、何事かを、蜜々に託した。かれ自身では、これに触れることもどうすることも、出来なかったに違いない。

『新・平家物語(二)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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