中院雅定は、さっそく、朝議の日に、 (左馬頭義朝の嘆願により ──) と、そのことを、もち出して、 「子の軍功に代えて、父「為義の一命は、助けてとらせては、どうであろうか」 という私見を添えて、主上、ならびに、諸卿の考慮をもとめた。 雅定は、また、 「これは、決して、わたくし一個の、私情ではない」 と、公明な理由をあげて、人びとの同意を求めることにも努めもした。 その理由とするところは、 「わが朝で、弘仁の元年、左兵衛督仲成が、人心を騒がせて、多くの人を、乱に死なせたとき、仲成を死罪にした以外は
── 帝王二十六代、三百四十七年というもの ── その間に、死刑は一度も行っていません。四世紀も、死刑なくすんでいた世を、また、死刑を行う忙しい世にしなくてもよろしいでしょう。人、一殺
をなせば、殺 また殺を生じ、百殺もなお足らず
── とかいう古言もあります」 雅定は、転じて、為義を弁護して、こうも言った。 「── かれが、新院方に与
したのも、また、旧恩によるものです。それに、年も六十をこえ、病にも悩む老将です。祖父八幡太郎義家は、朝廷のために、陸奥
の果てまで征 って、大きな功もあり、なお余風を慕う武者が、坂東地方には多いともいわれておる。かれを、死罪にしたら、恨む者も多いでしょう。──
裁かば、必ず、裁かれん。── 世のけわしさに、けわしさを加えるような政治が、朝命のおん名をもって、なされてゆくことを、わたくしは、かなしみます、怖れます。仁と大愛こそ、わが朝の、まつりごとの姿ではありますまいか」 すると、たれか座中で、笑う声がした。 少納言信西入道であった。 「きのうは、きのう。きょうはきょう。──
政治の大事は、今日を、観
ることだ。── 雅定どのは、善言を吐かれた。しかし、雅定どのは、今日の世態を、御存知ない」 信西の舌鋒
に会っては、かっての、悪左府さえも、一歩をゆずったものである。 その信西が、いまは、その雄弁に加えて、権力を持っている。かっての悪左府頼長に、そっくりな態度で、あたまから、反対するのであった。 「もし、為義をゆるす程なら、新院の御処分などは、思いもよらぬ。またもし、為義の死をゆるして、流罪にでもしようものなら、遠国において、同類を集め、ふたたび何を謀
むか知れますまい。かつは、清盛すらもすでに叔父
を討って、いさぎよく、禍
いの根を断っているのに、ひとり為義、義朝父子ばかり、特別なおはからいを仰ぐのは、公平でないことにもなる」 信西入道は、たえず、薄笑いをたたえて、雅定を見ていた。義朝に頼まれていることを、知っているからだ。 「──
検非違使 の内偵によれば、左馬頭は、わが屋敷へ、父の為義を、匿っている様子だと申しておる。万が一、それが真ならば、奇怪至極だ。すておけぬ違勅でもある。ただちに、他の武将に命じて、義朝を討ち、為義を召し捕
るべきだとさえ考えておるのに、さりとは、中院殿の甘いお説ではあるよ」 と、吐き捨てるように、一蹴
した。 時勢の急変にはありがちである。戦
に敗れれば暴民を生み、戦に勝てば一人の覇者
を生む。── 乱後、信西入道の権勢ぶりは。朝議のたびごとに、表面化していった。── とても、雅定では、いい勝てない。 雅定は、家に帰ると、ひそかに、義朝を呼んで、わけを話した、そして、 「まずくすると、ほかの武将が、御辺の屋敷へ、討手に向かうやもしれぬぞ」 と、注意した。 義朝は、悩んだ。いまさらに悔いた。なぜ、勝も負くるも、父や弟たちと、一つ陣に拠って、天命をまたなかったかと。 股肱
の家来、鎌田正清や波多野次郎は、はやくも、主人の苦悩を、察知していた。── いや、家来の主なる者は、みな知っていた。 せっかく、運を賭
けて、戦に勝ったかれらにとり、これは、大きな動揺になった。勅には親
を討つ、という慣いもある。もしこのために、賊名をうけ、さきの戦功も帳消しにされて、朝廷の討手をうけてはたまらない ── という心配である。 悶々
の一夜を明かし、二夜を明かし、ついに、義朝は、腹心の鎌田正清と波多野次郎に、何事かを、蜜々に託した。かれ自身では、これに触れることもどうすることも、出来なかったに違いない。 |