「世間がうるそうございます。頭殿
にも、お心をくだき、あれこれ、御助命のおはからいに、寝食を忘れておられますものの・・・・いかんせん、朝廷に、邪魔者もおり、反論もあります。──
ついては、しばらくの間、東山の奥まった所の草庵
に、おかだを潜
め、かたがた、御養生あるようによの、仰せにございまする」 鎌田正清と波多野次郎とが、為義の室へ、ぬかずいて、そう伝えた。 坪のさきまで、輿を持ち込み、 「──
お供には、われらどもが」 と、うながした。 為義は、座を立って、去るにのぞみ、親ながら、義朝の部屋の方へ向かって、手をつかえ、 「げに、子は宝、持つべきものは子というが、子でない者なら、どうして、身を代えてまで、このように心を配ってくれよう。・・・・おの御恩は、生々
世々
、忘れることではない。忘れはせぬ」 と、涙をこぼして、幾たびも言った。 かれを乗せた輿は、黄昏
の裏門を出て、やがて、夜に入るままの暗い道を行った。 東山というのに、輿と供人達の行く方角は、少し違っている。都は出外れ、西朱雀
から七条の真っ暗な草原へ来てしまった。 ぽつねんと、たれも乗っていない空の牛車が待っていた。家中の郎党十数人が、先に来ている。──
と、鎌田正清が、肱
で、波多野次郎の、体を小突いた。 次郎は、いやな顔をして、 「・・・・和
主
、斬
れ。・・・・おれには」 と、手を振った。 正清も、たじろぎ、迷うこと、頻
りだったが、もう牛車の側まで、来てしまったので、思い切ったように、 「あ。ちょっと・・・・輿を降ろせ」 と、雑色
の足をとめた。そして、自身、輿のそばへ、寄り添い、 「大殿、はや、都の外へ出ました。道も遠ございますゆえ、牛車の方へ、お移りなされませ──」 と、うながした。手は、太刀のつかを握り、身を退いて、為義が、出るところを、待つ構えであった。 すると、波多野次郎が、うしろから、かれの構えている手を、突いて、 「正清、ちょっと、顔を・・・・」 と、十歩ほど、輿を離れた所へ、連れて行った。 「おい、騙
まし討ちは、よせ、騙まし討ちは。・・・・かりそめにも、主君の父なる大殿
。そんな手はあるまい」 「じゃあ。どうする・・・・?」 「申しあげちまえ、いっそのこと。そして、お念仏をおすすめ申し上げ、たとえ野末でお果てになるまでも、せめて、六条源氏の大殿たる礼儀をもってするのが、ほんとだろう」 「いや。もっともだ。・・・・だが、そうなると、斬
りにくい。貴公、代わってくれい」 「真っ平だ。おれには、できない。貴様、やれい」 こそこそ、押問答していたが、やはり正清が、やがてまた、為義の前へ来て、事実を告げた。平伏して、お命をいただきます、じつは、そのためのお誘い出しでした
── と白状した。 為義は、騒がなかった。むしろ、 「そうか」 と、子の帰結を、大きく受け取るような、返辞だった。 しかし、輿の外に、座り直して、一言、こうは言った。 「なぜ、義朝は、それをわしへ、言えなかったのか。いえない気持も察せられるが、父の心とは、そんなものではない!
・・・・」 語気を強めたここで、さすがのかれも満面は、急に下
る涙となって ── 「そ、そんな、小さい親の愛。せまい料簡
の父と、為義を、見ていたのか。──
幼少、母の乳
を離れ、父のひざごに、とりついて、この父の顔を、見覚えてから何十年。・・・・まだ・・・・まだ、この父の、心の隈々
までは、分らなかったか」 いつのまにか、あたりは、草の穂のほか、立っている影はない。打ち伏し、ぬかずいている武者、雑色まで、啾々
、虫の咽
ぶように、泣いていた。 「義朝よ。それ一つが、残念だぞよ。世は、泡沫
といえ、深い深い宿縁の、子ではないか、父ではないか。──
こうと、なぜ、胸を割ってくれなかったぞ。いかに、零落したりといえ、為義は、親心までを、路傍に捨てて、お身を頼ったわけではない。・・・・是非なければ、それもよし、父子、今生
の一夜を、心ゆくまで、惜しみもし、語りもして、別れたものを・・・・」 かれは、ひざを直した。生涯の涙をそそぎ尽くしたごとく、もう泣いてはいない。合掌しているのである。小声の念仏がつづき、心の平調をとりもどすと、法衣の袖
を動かす風と一つのもののように、静かに言った。 「正清。──
打て」 ※ 左馬頭義朝も、ついに、父の首級を、官へ出した。 市に曝
すことはされなかったが、庶民は、声をそろえて、義朝の非行を責めた。六条河原で、清盛に石を投げたときよりも、激昂して、寄り寄り、悪口をいいあった。 四郎左衛門頼賢、そのほか頼仲、為宗、為成など、かれの弟たちも、つぎつぎに捕らわれ、つぎつぎに処刑された。──
ひとり、八郎為朝だけは、 「ばかげている。わからない時勢だ。あれほどな兄貴だが、やはりまだ公卿の番犬にすぎない。たれが、捕まってやるものか。── おれの天地は、どこにでもある」 豪語を放って、ひょう然と、単騎、四国方面へ走ってしまった。けれど、やがてまた捕らわれて、都へ差し立てられ、肱
のスジを切って、その後、伊豆の大島へ流された。 |