〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/03/18 (日) 二 つ の 門 (一)

── いい忘れたが、法皇の崩御を、さきに、七月二日と書いたのは、正史の年表によるのである。
ところが、紀伊郡竹田村安楽寿院のみささぎ に葬る、という年表記事も、また同日のことになっている。 “百錬抄” その他の史書も、同様だが、すこし、おかしい。
くなった日にすぐ死者を埋葬するなどとは、当時の小市民の間のもない習慣である。天皇の大葬、しかも、仏教の帰依きえ が深く、日本第一の大檀家おおだんか 、鳥羽法皇の死が、そう簡略に行われるわけはない。
思うに、実際の崩御は、それよりずっと早かったか。あるいは、前後の事情から、 だけを発し、 遺骸いがい はとりあえず、安楽寿院の塔を陵に擬して、仮に納めておいたものか。 ── どっちかであろうと考えられる。
と、疑うわけは。
だれが、いい出すともなく、崩御の当夜。みじかい夏の夜も、まだ明けきらないうちに、
「新院な、御謀ごむ ほん のうごきがみえる」 と、いう声が、通夜つや の人びとの耳から耳へ、遠波のように、伝わって来たのである。
まこと か。 ── まさか。
いや、あり得ないことだ。 ── 何の、きざ しはすでに前々まえまえ からあったことだ。
── 通夜つや こも りの本堂、中堂、奥院までも、騒然と、これに仏心を消しとばされてしまった。公卿百官の顔は、御遺骸をすえてあるだん銀燭ぎんしょく よりも白け渡って見える。夏なお寒い夜風は、灯という灯、部屋という部屋を吹き通って、人々の背筋へ、いいしれぬ恐怖をはわせた。
武者所からの、注進としても、
「昼から、田中殿を閉じこめておわす新院には、夜のこく (十時) ごろから、何事やらん、御密談のようにうかがわれます」
と、あり。 ── また、へつの情報では、
洛中らくちゅう は昼から、兵具を積んだ馬、車などが、辻々つじつじ を行き交い、柳ノ水の御門には、どこの武者ともわからぬ人数が、たてこも って、馬のいなないこも、すさまじゅう聞こえました。・・・・また、街では、ただごとならぬ前ぶれと見、女子どもを、北山や東山に避難させ、家財をよそへ移す者すら見えましたが、夜半すぎては、大路小路も、死の都のごとく、人影一つ見えもしませぬ」
と、いう。
通夜の百官は、いよいよ、身の毛をよだてあって、
「すわや、宵にはまだ、ここにおられた頼長公が、いつのまにか、お姿の見えぬのも、それではないか」
「左京大夫教長卿も、消え失せられた」
「家弘卿も見えぬ。成雅卿も。・・・・」
そのほか、夕顔の三位もいない。たれとたれも見えないなどと、数えたててみると、常々つねづね 、宇治の忠実や悪左府を取り巻いていた一連の顔ぶれと、また特に、新院とは縁のふかい者とか、いつも何か不平そうな者などが、ことごとく、席から姿を消している。
「もはや、疑う余地もない。新院の御むほんとは極まったり。すわ、こうしてよいものか」
通夜の公卿たちは、あらし の中核に置かれたような不気味な静寂にとり かれた。それは、天飆てんぴょう でもなく、地から立つ旋風つむじ でもない。人の心が、人の心を戦ぎたてる魔魅まみ息吹いぶき みたいなももだった。 ── 霊柩ひつぎ の中に横たわっている一個の冷たい人体以外は、すべて、その作用からまぬかれ得ない者であった。

『新・平家物語(一)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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