── いい忘れたが、法皇の崩御を、さきに、七月二日と書いたのは、正史の年表によるのである。 ところが、紀伊郡竹田村安楽寿院の陵
に葬る、という年表記事も、また同日のことになっている。 “百錬抄” その他の史書も、同様だが、すこし、おかしい。 亡
くなった日にすぐ死者を埋葬するなどとは、当時の小市民の間のもない習慣である。天皇の大葬、しかも、仏教の帰依
が深く、日本第一の大檀家
、鳥羽法皇の死が、そう簡略に行われるわけはない。 思うに、実際の崩御は、それよりずっと早かったか。あるいは、前後の事情から、喪
だけを発し、御 遺骸
はとりあえず、安楽寿院の塔を陵に擬して、仮に納めておいたものか。 ── どっちかであろうと考えられる。 と、疑うわけは。 だれが、いい出すともなく、崩御の当夜。みじかい夏の夜も、まだ明けきらないうちに、 「新院な、御謀
反 のうごきがみえる」
と、いう声が、通夜 の人びとの耳から耳へ、遠波のように、伝わって来たのである。 真
か。 ── まさか。 いや、あり得ないことだ。 ── 何の、兆
しはすでに前々 からあったことだ。 ──
通夜 籠
りの本堂、中堂、奥院までも、騒然と、これに仏心を消しとばされてしまった。公卿百官の顔は、御遺骸をすえてある壇
ノ間 の銀燭
よりも白け渡って見える。夏なお寒い夜風は、灯という灯、部屋という部屋を吹き通って、人々の背筋へ、いいしれぬ恐怖をはわせた。 武者所からの、注進としても、 「昼から、田中殿を閉じこめておわす新院には、夜の亥
ノ刻 (十時)
ごろから、何事やらん、御密談のようにうかがわれます」 と、あり。 ── また、へつの情報では、 「洛中
は昼から、兵具を積んだ馬、車などが、辻々
を行き交い、柳ノ水の御門には、どこの武者ともわからぬ人数が、たて籠
って、馬のいなないこも、すさまじゅう聞こえました。・・・・また、街では、ただごとならぬ前ぶれと見、女子どもを、北山や東山に避難させ、家財をよそへ移す者すら見えましたが、夜半すぎては、大路小路も、死の都のごとく、人影一つ見えもしませぬ」 と、いう。 通夜の百官は、いよいよ、身の毛をよだてあって、 「すわや、宵にはまだ、ここにおられた頼長公が、いつのまにか、お姿の見えぬのも、それではないか」 「左京大夫教長卿も、消え失せられた」 「家弘卿も見えぬ。成雅卿も。・・・・」 そのほか、夕顔の三位もいない。たれとたれも見えないなどと、数えたててみると、常々
、宇治の忠実や悪左府を取り巻いていた一連の顔ぶれと、また特に、新院とは縁のふかい者とか、いつも何か不平そうな者などが、ことごとく、席から姿を消している。 「もはや、疑う余地もない。新院の御むほんとは極まったり。すわ、こうしてよいものか」 通夜の公卿たちは、嵐
の中核に置かれたような不気味な静寂にとり憑
かれた。それは、天飆
でもなく、地から立つ旋風
でもない。人の心が、人の心を戦ぎたてる魔魅
の息吹 みたいなももだった。
── 霊柩 の中に横たわっている一個の冷たい人体以外は、すべて、その作用からまぬかれ得ない者であった。 |