まだ、法皇の喪
が、発せられない、その日の、寸前のこと。 時なるかな、仙洞の中軸も、今は、失
せ給うらしい ── と、街にも聞こえわたった日である。 「法皇、御危篤・・・・」 との報に、その御養生殿 ── 鳥羽の安楽寿院へと、駆けつけてゆく輿、馬、牛車などの数は、ひきもきらない。 その中を、これはまた、あわただしげに、牛飼いの童、舎人、随身まで、眼じりをあげて、急いでゆく、一両の牛車があった。 新院崇徳の、悲痛なおん顔が、ゆれ騒ぐ、御簾
のうちに仰がれた。 新院には、つい昨夜まで、この急変を、御存じなく、今朝、鳥羽の田中殿
の舎人からの早馬で、初めて、 「さは、にわかに・・・・?」 と、おどろからたものだった。 さすがに、御父子の情。すぐに、御車
を命ぜられ、田中殿で御装束がえもなさらず、そのまま安楽寿院へ向かわれた。 門の内外は、牛車で、いっぱいだった。 広前にも、すきまない程、供待ちの、輿や、牛車がおかれている。 しかも、離宮の奥深くまで、一抹
の悲しい静寂 が、墨のように刷
いていて、新院の御車を、お迎えに出る者もない。 「たれぞ、あらぬや、新院のわたらせ給うに」 随身の者は、声をそろえて、車寄せや、あたりの廂
へ、呼ばわった。 そのまに、もう、新院は、待ちきれないお気持に急
かれて、おみずから、簾をあげて、 「── 降ろせ、降ろせ」 と、烈しいお声を、何度も、牛飼の者の背へ、浴びせておられた。 すでに、門を入るとき、金堂
、三塔などの、祈祷 の鐘が、ハタとやみ、そこらにいた諸家の従者や侍たちも、ひとしく、ある、一瞬を感じて、 「・・・・おお、御閉眼とみゆる」 「御臨終・・・・ぞ」 と、一せいに、地へ伏してしまったり、また、御堂のあたりへ、わらわら集まって、合掌しあっているのを見ておられた。 (さては、この世のおん息を、ひきとらせ給う今か。あわれ、御生前に、ひと目なりとも) と、新院のお胸は、岩をかむ飛沫
のように、鳴り騒いだ。五臓といわず、体じゅうの、指の先までが、わままき、痛み、悲しみ ── そして毛孔のすべてまでが、何かを、一言でも、さけびたがって、肌
に粟 つぶを、よだてていた。 この血の中で、新院が、必死にあがき求めておられたのは、もう、法皇ではない。ただの父である。
── 自分も上皇ではない、ただの子である。 父が死ぬ ── 子が、駆けつけて来たのだ。 すぐ、眼と鼻の先の、同じ都の中に、何十年もいながら、親しく父とも呼べず、子とも仰ってもらえなかった父子
。 たくさんな、誤解もある。 厭まれもした子であるが、お恨みもある。 おそらくは、父なるあなたも、この悔いの子を、ひと目、見て下すったら
── 人間としての、ひとすじのおん涙を ── 垂れていただけるに違いない。 お会いしたい。どうしても、御意識のあるうちに。 子よ。父よ。 ──
と心の中だけのことでよい。 一すじの、涙が、二個の、愚かな肉塊を、一つに還元してくれるに相違ない。 ── それを抱いて、なお、生き残って、人間の業
をつづけてゆく玩愚 なる子の、せめてもの生きがいとしましょう。人間が、動物ではない、動物になってはならない
“護符 ” としたい。
── 凡下の子なら、何をか、こんな悶
えを持とう。お父さんっ、と呼べばよい。抱きつけばよい。どうして、それが出来ないのか。 「降ろせというに、何をさは、惑い騒ぐぞ。かしこへ、着けよ。・・・・早くっ」 新院は、ふたたび、叱咤
された。 すさまじい御声に、随身や牛飼は、いよいようろたえて、にわかに、車をまわし、むりに、押し通って、車寄せの大廂
へ近づこうとしたため、そこに据えてあった輿の一つが、車の輪に触れて、ばりばりと壊れかけた。 「あな。狼藉
っ」 と、武者所の親範
。また範家 の子の源ノ勘解由
など、四、五名が、駆けて来て、やにわに、御車
の轅 を、左右から抑えた。 すわと、新院方の随身も、いきまいて、 「無礼すな、眼
はないか。これは、上皇の御車なるを、何は、阻むぞ」 と、叱りとばした。 すると、親範や勘解由たちは、かえって、威
猛高 を増して、 「おうよ。新院の参入と見奉ればこそ、こうは、仕
るなれ。無下 に、入り給わんとて、やは、ここを通し参らすべき。戻られい、戻られい」 「な、なにを、下臈
どもの、血狂うて ──」 と、新院は思わず、御車の端まで、身をのり出して、 「朕にとっては、かりそめにも、父なる法皇の、おん臨終
に、急ぎまかるに、案内
もあらず、かえって、武者ばらをもって、阻むとは、心得ね。 ── そも、なんじらは、たれの命によってか、かかる無体を働くぞ」 「仰せには候えど、これは、右少弁惟方卿
が、御内旨を奉じての、仰せ付けにて候う。たとえ、上皇たりといえ、武者には武者の務めの候う。ここ一歩たりと、お通しはささじ」 「なんの、なんじらの、関
ずらうことかは」 と、新院は、身をふるわせて、御車から降りかけた。武者たちは、力をあわせて、車を押し返し、随身たちは、武者たちを、突き退け、突き飛ばして、もみ合った。 その弾
みに、新院がお手を掛けていた御簾が切れて、あなと、叫ぶまに、轅
の外へ、転 び落ちられた。そして、ばらばらになった御簾の竹の端が、武者親範の瞼
をやぶって、血を出した。 |