〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/03/18 (日) 茨 (三)

どうして、誤り伝えられたか、そのとき、法皇の御臨終の間近くにまで、
「新院が、武者を、お打ちあそばした」
はば めた者を、お怒りあって、御狂気のように、押し通ってまいられる」
と、口々に、新院御狼藉という風に、恐怖的な声が伝わって来た。
御病間には、美福門院の泣き伏し給う黒髪と、 が、玉体をおおった厚い真白な絹のそばに、ちらとのぞかれた。
次の間、また次の間、さらに廊をへだてた床々ゆかゆか にも、夜来、あるいは、数日来、詰めまいらせて、声もない諸卿の姿が、いっぱいだった。関白忠通、内大臣実能、右衛門督公能、とうの 中将公親きみちかげん 中将師仲もろなか 、そのほか、名だたる公卿で、見えないのはない程である。
少納言信西のそばにいた、右少弁惟方これかた が、ついと立って、長廊を、急ぎ足に、走って来た。
すれちがった院の女房、丹波ノ局が
「あ。・・・・早く、行ってあげてください。たいへんです」
と、おろおろ声で告げた。
惟方これかた は、なお、大股おおまた になった。すると、横から明かりが している広床ひろゆか の柱ざかいまで来ると、はたと、新院のお姿と行き合った。
新院のお顔は、仮面めん のように青白く、まなこ は、きっと、あらぬ物を見ておられるように、眉間みけん へ寄っていた。御衣ぎょい のたもとはほころび、おぐし は、ひとみ を、さえぎっている。
「・・・・御対面は、かないません」
惟方は、両手をひろげた。胸はばで、押し戻すように、新院のお体を、阻めて、
「お見苦しいではございませぬか。ひそやかに、お帰りなされませ」
と、かさねて、言った。
お耳には、はいらない、新院は、かれの腕を、払い退 けた。
「退けっ。ひと目だに、お会い申し奉らねば」
「いけません。御対顔は、かなわぬと、申し上げているのが、お分かりになりませんか」
「わ、あからぬ。・・・・惟方っ、なぜ、父の君のおん臨終いまわ に、子が、まかるのが悪いか。邪魔だてなす、悪鬼ばらよ。退けっ。退きおれ」
御遺誡ごいかい ですぞ」
惟方は、取り乱したお人を、圧伏するような大声で、二度も怒鳴った。
「御遺誡ですっ。・・・・いかに仰せられても、御対面はなりません」
新院は、声をあげて、お泣きになった。それでもと、なお、惟方の腕に、泣き狂われるのを、惟方は冷ややかに、武者を呼びたてて、かれらの腕力にまかせた。そして、嬰児あかご のような嗚咽おえつ をしつづけながら、もとの御車くるま の破れた御簾のうちへ、むりやりに、押し上げられる新院のお姿を見届けてから、かれは奥の方へ姿をかくした。
そのとき ──
離宮に隣する金堂こんどう弥陀みだ どう 、三塔、金剛心院などの、伽藍がらん荘厳しょうごん は、いちどに、香煙をむせ びあげた。うら悲しい梵鐘ぼんしょう が鳴りわたり、千余の群僧が、黙祷もくとう のうちに、鳥羽法皇の御他界は、諸天のぶつ 菩薩ぼさつ と、地上の人びとへ、告げられたのであった。

『新・平家物語(一)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ