〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/03/17 (土) 茨 (一)

後白河天皇が、践祚せんそ された。
十月、即位式も、つづいて執り行われた。
「・・・・四の宮とは」
人びとの予想は、まったく、はず れたのである。
鳥羽の第四皇子、雅仁まさひと 親王が、登極されようとは、たれにも、意外だったらしい。
それまでは、万人ともに、 「こんどは、小六条の宮こそ ──」 と思っていたのだが、とたんに、小六条の宮の名は、かき消えてしまった。
人皇七十七代の大君として、ひとたび、 一人いちにん が定まる以上、もう、ほかに、余人よじん の名など、口にすべき余地はない。
しかし、疑問を抱くのは、人びとの勝手である。当然な人情として、
(どうしてだろう?)
と、人びとは、宮秘のいきさつを、知りたがった。そして、決定するまでには、美福門院の御希望が、大きく作用していたことを知って、
(・・・やはり、そうであったのか)
と、得心のついたような、また、つかないような顔をした。
しかしやがて、大極殿だいごくでん の盛儀には、こぞって、御代万歳を唱え、皇祚こうそ の連綿を謳歌おうか した。右近のたちばな、左近のさくら、ああ、危ういかな人間の造花 ── と、たらか一人でも、群臣の中で憂えた者はなかっただろうか。多くはみな自分の衣冠や、参列の栄に、自分を祝している万歳でしかなかったようだ。
あまりなる美福のお仕打ち。皮肉なる法皇のお心。
どうして、重仁 (小六条の宮) いて、四の宮雅仁を、立てられなど、遊ばしたろうか。
(さまでに、この身を、うと ませ給うものか)
と、新院は、悶々もんもん と、夜もよくお寝みになれなかった。
こんどの後白河は、新院にとって、実の弟君にあたるのである。
母は、ともに、今は亡き待賢門院であり、後白河 (雅仁) は、新院よりも、八つも年下の弟として、生まれている。
従って、
父法皇の后として、美福門院が、ちょう を、もっぱらにし、美福の御子みこ 近衛が、天皇たるあいだは、世にいう継子ままこ なみに、新院も雅仁も、あってなきように、年月を送ってきた兄弟だった。 ── 知る人も少ない弟だったのに。
(その弟が)
と、新院は、煮えるような瞋恚しんい を、どうしても、なだめきれない。
わが子。正しく、いちどは、前天皇の皇太子であった重仁を、なぜ無視しなければ、ならないのか。その自然な順をさしおいて、あえて、弟の雅仁 (後白河) した美福門院のはら ぐろさよ ── 女の執拗しゅうね き意地わるさよ ── と、相手の心のとげ に、のべつ、心を刺されてお在す新院であった。
けれどまた、否 ── と思い直して、
(人がなすと思えば、腹も立つが、すべては、天意というものであろう。もし、人のなす結果ならば、それは、この身に徳がないからである)
多くの時間を、拈華ねんげ読経どきょう などに過ごして、ひたすら、この悩みから、脱れようとも、試みられた。
けれど、なんとまた、しらじらしい、人の表裏うらはら
きのうまでは、媚びや甘言を載せて、群れ寄って来た車駕しゃが の客も、きょうは、ここの門を、振り向きもしない。
── まれに、例の、頼長が来て、
「世上の声など、すべて、軽薄なものです。お気になさいますな。── 時あって、ふたたび、なんぞといえば、招かずとも、また雲集して来ましょう。・・・・時です。ただ時です」
と、お慰めするくらいのものだった。
いや、頼長の言は、むしろ、しばしば新院を刺激し奉るような暗示を含んでいた。
── 自身の逆境を、新院の御不平に託して、新院のお心の火へ、油を注ぐような作用をなした。
時です、時です、とかれが口ぐせのようにいっていたその時が、不幸にも、それから一年もたたないうちに巡って来た。
翌年の、保元元年 (四月改元)
去年、先帝近衛の崩御も、夏七月であったが、またしても、ことし七月二日、鳥羽法皇が、おかくれになった。
法皇の崩御こそは、天下の変であった。御在世中、朝廷では、幾たびも、天皇の退位、新帝の登極と、歴世、あわただしい推移を見たが、万機はすべて仙洞せんどう で決せられ、鳥羽院政の実権は、二十七年の久しい間、変わることも無く来たのである。

『新・平家物語(一)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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